母性の戦争 『ソロモンの偽証』


閉廷後、大出俊次が校舎を後にすると、母親がそこに待っていて、彼を抱擁する。わたしには、母親のこの感覚が解りづらい。


法廷では、大出が級友に行った横虐の数々がつまびらかになっている。その息子に対して、横虐の被害者の衆目があるやもしれぬ環境で、母は赦免を与える。


彼女の視点に立てば、息子は父親の横虐によってすでに罰せられている。父は息子を人でなしと認識していて、息子を加虐する。


ここで、罪の因果関係はあくまで曖昧にされている。息子が横虐を働いたから、父は息子を罰したのか。父の加虐の結果、他人を横虐する息子の性向が醸成されたのか。解るのはことはただひとつで、大出は暴力の連鎖に巻き込まれた被害者である。罪の出所は不明瞭だから、母親としてはただ受容するしかない。


この視座は、大出に横虐された三宅樹里からすると、とても受け入れられないものだろう。


暴力の伝播が父から発したとしても、大出に横虐された樹里を初めとする無名の級友たちの人権は誰が保障するのか。語り手は、被害者の人権について、浅井松子の父親の発言を通して、スパルタな見解を示す。ただ、それは、自助努力で乗り越えろとされる。それができなかった樹里は、この事件の諸悪の根源とされる。


大出は文芸的救済の対象である。しかし、彼には選択の余地がある。父親からの横虐が級友に伝播したとするならば、彼には、それを伝播させないという選択があったはずである。


対して、大出の横虐をこうむった生徒たちは、それを受け止めるしかない。ただ唯一、被害者の中で横虐を伝播させようとした樹里の罪科が、大出のそれよりも強調されて語られる。しかも、その横虐の伝播は、大出に逆流させようとしたものである。素行不良者の善行というフィルターが働いている。


被害者の生徒たちにとっても、大出と同様に、文芸的な課題は生じているはずだ。


横虐が伝播するという現象自体も問題である。そして何よりも、その横虐が他でもない自分に向けられたこと。自分の性質により、横虐の標的となってしまった、という思考がつらい。これは、たとえ大出が罰せられ、被害者に人権的救済が訪れたとしても、解消されえない人生の課題である。


横虐を伝播できる大出はある意味で救われている。虐待されたとしても、それは父親の性質に問題がある。自分の責任ではない。


樹里は、かかる課題を解消しようと試みている。これが、最大の罪であると、語り手は解釈する。


事件は、樹里が大出の横虐を受け、その報復を試みて始まっている。だが、この横虐は樹里の選択によっては、避けられたものであり、だから罪科があるとされる。


歩道橋を降りようとすると、大出らが道を塞いで歓談している。樹里が来た道を戻って迂回すれば、何の問題もなかった。だが、彼女はそこをあえて通らざるを得ない。自尊心が迂回を許さないからだ。もし、迂回してしまえば、生涯悔やむことだろう。選択の余地など実はないのである。


樹里の自尊心は、この直後、藤野涼子に対して行われた、柏木卓也の非難によって社会化されている。それは公正が侵されることの憤りである。


藤野涼子は、樹里が横虐される様を目撃しながら、その場を去ろうとする。柏木卓也はそれを非難する。彼女が、いじめはいけないと日頃公言するような、委員長キャラだからである。


柏木はその後、自裁し、その死を樹里が利用して、大場への復讐を試みる。柏木と樹里は共犯である。柏木は『模倣犯』でいえばピースに相当するだろう。柏木は、物語の根源的な課題を提示する。横虐が伝播するという現象である。その一方で、柏木は友人の神原和彦には憤る。神原は殺人者の息子である。しかし、大出と違って、父の暴力的な性向は彼に発現せず、横虐が伝播するという現象が否定されかかる。


柏木の神秘的な造形は、ピースのそれのように、その憤りによって俗化されてしまう。柏木の自裁は、手前味噌な思惑の帰結とされてしまう。


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物語は、公正を厳格に定着させることを、父性的な権能として把握している。


大出の父は息子の罪科を暴力で以て贖う。道を専有した大場を許せなかった樹里は、母性の極限たる母を嫌悪している。母性の庇護下にある大場は、母性を拒絶する樹里を襲撃する。


映画の前編で、父性は母性に次々と襲いかかる。大出の父は、妻の腹部に蹴りを入れる。担任の森内恵美子は、隣人の妻が夫に殴打される現場を目の当たりにする。そして、神原和彦の父親は、母親を虐使に至らしめている。


後編が否定するのは、父性のかかる権能であった。最後に大出が母に受容されるように。


しかし、父性による公正の厳格な定着に嫌悪が示されるなら、裁判は裁判ではなくなる。ここでわれわれが、論理的な法廷劇を期待していたら、肩透かしをくらうだろう。究極の謎だった柏木の自裁は、彼の俗化によって、謎までも俗化してしまう。解くに値しないのである。


かくして法廷は、死者を利用した自己顕示欲の催事場と化す。懺悔と謝罪と感謝が乱れ飛ぶ、人民裁判の場となる。


体育館という舞台の広漠さが、法廷の群衆統制にまるで向いていない。


カメラが被写体に近づいても、その後背の、被写界深度の向こうには、絶えず、不明瞭な傍聴人らの形姿が、蜃気楼に揺れていて、われわれの没頭を許さない。傍聴人の前で泣き乱れる生徒らはまるで、衆目の中で感情を発露する快楽に浸るかのようだ。


模倣犯』の映画化にあたって、森田芳光宮部みゆきを怒らせたものは明らかだろう。


原作とは違い、俗化されることのなかったピースは、最期に山崎努へわが子を託す。曰く、自分は失敗してしまった。横虐を伝播させてしまった。しかし、山崎ならば、かかる課題を解いてくれるかもしれない。


森田は『模倣犯』を、ピースと山崎の、父性の物語としたのである。