構成された修羅場を超えて 『セッション』

教官という現象の効果は、教官から与えられた修羅場の被験者がそれを自覚して時点で、霧散することだろう。あくまで修羅場は、本当に修羅場だと認知してもらわねば、教育効果に欠ける。それが、教官によって意図的に構成された現象だと悟られたら、修羅場が修羅場でなくなってしまう。


ナタリー・ポートマンにとって、ヴァンサン・カッセルの要求が修行の一環なのか、それにかこつけたセクハラなのか、区別がつかない(『ブラック・スワン』)。そうでなければ、修羅場が構成され得ないからだ。


デミ・ムーアを襲うヴィゴ・モーテンセン曹長のしごきは、あくまで個人的怨念として受容されねばならない(『G.I.ジェーン』)。実は教官という現象を構成していたという驚きが、最後に出てこないからだ。


+++



教官物として見ると、『セッション』の構成は変則的である。


J・K・シモンズは、修羅場が仮構であることをはっきりと明言している。終盤手前の交通事故では、弟子であるマイルズ・テラーバーサーカーと化し、シモンズに牙を向ける。教官と生徒という関係は瓦解し、物語の浄化のピークアウトが早々と到来してしまう。


クライマックスのステージの様相は、むしろアンチ教官物と呼ぶべきものだ。


そこでマイルズに訪れた試練が、教育効果を狙った意図的な修羅場であったなら、これは正統的な教官物の構成である。話を教官物として受け取っているわれわれは、教官という現象がステージ上で構成されつつあると認知して、最初はほくそ笑みを誘われてしまう。


ところが、これが認知のバイアスであることが次第に明らかになる。修羅場に順応するマイルズを、シモンズは本気で嫌がるのだ。これは仮構された修羅場ではなく、個人的な怨念に基づく本物の修羅場であることが明確となる。


ここで暴露されたシモンズの小物性は、これまでの彼の行状の不可解さに解答を与えるものだろう。


シャッファーのスタジオに1秒も狂わず入ってくるところから、このオッサンの挙動は笑いをもたらし続けた。自己演出の塊で、神経が細すぎるのである。それは、彼の小物たるを裏付けるものだ。


しかし、教育効果としての修羅場を考えると、彼の振る舞いは一転して的を得てくる。かかるアンチ教官性は、アンチだからこそ逆説的に、教官という現象をこの上なく効果的に構成し始める。怨念だから、本当に修羅場なのであり、しかもシモンズは、これがオッサンの私的な怨念であることを知っている。


修羅場の迫真性の極限に至るには、弟子ばかりではなく教官ですら、修羅場が仮構であることを認知してはならない。問題はむしろ、弟子の認知問題ではなく、教官のそれに還元されてくる。交通事故で力関係は逆転していたのだった。あそこで話の視点は、教え子のマイルズから教官シモンズへと密かに移行している。教官の認知が問題とされるからだ。では、彼は何を認知するのか。あのステージでオッサンは知ったのである。自分が教官という現象を構成していたことを。