煉獄を経て 『秒速5センチメートル』

いまだ恋愛が成就していない懸想の状態が、生活に支障を及ぼすまでに重篤化するのであれば、もはや恥も外聞もない。求愛を試みて、かかる状態を終わらせねば、前に進めなくなる。その際、最優先されるのは終わらせることであって、成就の可否は二の次になる。恋が叶うことに越したことはないが、恋敗れても、それはそれで目的は達せられる。未練は断ち切られ、懸想の苦しみから解放されるからだ。だが、求愛の手だてがなく、恋の可否を確かめられない境遇が続いたとしたら、どうだろうか。語り手の意図に従って『秒速』を解釈すれば、それは、終わらせたくても終われない、タカキ君の生き地獄の物語になる。


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「コスモナウト」は、本命の女に呪縛されるがゆえに、交尾機会の損失を被る男の話である。特定の異性への懸想が亢進したとき、異性一般への性欲が喪失してしまうあの現象が、物語の前提にある。タカキ君とて、花苗の求愛には応えたい。しかし、明里に呪縛されることで、彼は不能に陥っている。花苗の挙動不審に対して困惑するタカキ君は、彼女の意図を測りかねるばかりではない。前に進めないことに、彼自身、苛立っているのだ。あの女は来るはずもない電車を待ち続けていた。今もまだ、待ち続けているのかもしれない。かかる担保が、未練を引き延ばしてしまう。この地獄から解放されるためには、未だ自分を待っているのか、明里の判断を仰がねばならない。その判断が示されるのが、小田原線のあの踏切に他ならない*1


語り手が、『秒速』を救済の物語とするのは、まことに正しい。最終的に、明里の拒絶に遭って、タカキ君は絶望のどん底に送られたように見える。しかし、前述のように、とにかく呪縛の生き地獄から解放されることが優先されているから、もはや成就の可否は問題とならない。明里の呪縛から解かれた彼は、今やどこへでも行ける。それこそ花苗の待つ南の孤島へも。


ここで、『秒速』は『(500)日のサマー』と同じ結論に至る。


成就が見込まれないのなら、早く諦めて、次なる個体にアプローチすべきだ。そうやって、交尾の成功率を上げねばならない。これはなぜか。かかる習性が、ひとつの個体に執着する習性よりも、生存戦略に適していたからだ。


ただ、男性視点を克服する意味では、『秒速』は『(500)日のサマー』の先を行く。


未練を断ち切るためには、これまで執着してきた異性を貶める必要がある。男にとって、けっきょくサマーはわからないままに終わってしまう。わからないから、女の行動は理不尽なものとして解釈される。


『秒速』でも事情は同じだ。明里のことはわからないし、また、わかってはならない。タカキ君を束縛するために、明里は彼の中で神格化される。もし理解できれば、かかる聖性は期待できない。そもそも簡単に意図が明かされたら、話の前提となるタカキ君の未練は続かない。


明里が分からないことは、ある意味で徹底している。



婚約者の下へ赴く電車の中で、明里の内語が始まり、われわれはようやく明里の視点に到達する。彼女はそこで、岩舟でのタカキ君との一夜を回想している。ところが、これが不可解なのだ。このとき、車窓を眺める明里の顔が、われわれの解釈を拒むのである。表情が多義性を帯びすぎていて、彼女がタカキ君に対して、今、どのような感傷を抱いているのか、判断がつけられない。


明里の内面がわからない。これは正しい。しかし、明里を理解せねばならない。そうでなければ、話は男性視点で閉じてしまう。したがって、われわれは明里の内面ではなく、目に見えるもの、観察し得るもの、つまり、挙動から彼女を理解せねばならない。


踏切は、内面を閉ざしながらも、彼女の感情を暴露させる装置であった。上りと下り電車が猛烈な速度で交差して彼女の姿を消し去る画面内の構成は暴力に近い。かかる野蛮な余韻が、電車が去った後、虚空となった踏切の向こう側に明里の感傷を担わせている。それは拒絶であり怒りである。わたしを奪い来なかった、腰抜け電波野郎に対する憤りである。


われわれは、タカキ君の彷徨を追い続けるようでいながら、実のところ、タカキ君とともにたどり着いたのは、明里の感傷であった。どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。この課題は、あの踏切において、達せられたのである。