慈愛が恋の排他性と対立する 『アルドノア・ゼロ』『愛と誠』


アセイラムの慈愛体質は性愛を理解しない。スレインを救ってくれと彼女は伊奈帆に乞うが、男視点からみればこれはひどい話で、実際のところ、スレインを救えるのは手前しかいない。


性愛を理解しないから、好意の顕現に何の躊躇もない。童貞はこれを誤解してしまう。天然という属性が愛の信ぴょう性を毀損している。取りつく島のない天然という属性に直面し拒絶されて、初めてスレインは根源的な課題に達する。物語としてはようやく解決すべき課題を手に入れたのだが、まさにその出発点で、物語は終わってしまう。


もっとも、新海誠的に見れば、男はようやくこの女から解放されたようにも見える。

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天然ゆえに愛の信憑性が表現できない。彼女の好意は、遍く慈愛のサブセットにすぎない。三池崇史版の『愛と誠』は、アルドノアとは男女の関係を逆転させた形でこの問題を扱っている。


男は女の好意を信用しない。慈愛という天然の特性が女の好意を顕現させたと考えている。それは排他的でないゆえに信用できない。受け手であるわれわれもそう考え、女を信用しない。ここに女の課題が生じている。どうしたら愛の信ぴょう性を伝えることができるのか。


物語はやがて、遠い昔、男によって感化を与えられた彼女の原風景に到達する。慈愛という女の特性を構成したものはかつての男自身だった。ここで愛の構造は循環し、収斂するのである。