教官マーク・ストロング 『キングスマン』


庶民性がエグジーとサミュエルの両者によって担われる点が、事を複雑にしていて、この場合、かかる複雑さにあまり旨味がない。文化資本の否定をやりたいのであれば、サミュエルのいかにも成り上がりな風体が話の理念の邪魔になりかねない。しかも、エグジーの毛並みの良さが、かえって後背に文化の蓄積を感じさせてしまう。作品の魅惑的なガジェットは連携すべき理念を混乱の中で見失っていて、むしろ理念はガジェットの言い訳に過ぎなくなる。


このあたりの整合性のつまずきは、やはり『キック・アス』を彷彿とせるものだ*1。コスチュームプレイでなぜあれほどの蛮勇が湧き出るのか。それがわからない。ただ、『キック・アス』では、やくざのオヤジ(マーク・ストロング)が過程や達成感という記号の表現に成功していて、われわれを安心させた。


彼は『キングスマン』でもこの種の救いとなっている。『キック・アス』では因果性の担い手になることでキャラを魅せたが、本作では逆に、理念や造形のまとまりのなさを利用して、われわれの好感を誘ってくれる。あの降下試験の場面だ。試験を監督する彼は、最初は斜に構えていながら、土壇場になると本当はエグジーらが心配でたまらない醜態を出してしまうのである。