いつも見ている 『春の日は過ぎゆく』

春の日は過ぎゆく』のラストは一見したところ病的だ*1。失恋した男は河原へ赴き、過去の甘い日々を追想するかのように微笑する。直前の場面で、男は女と再会している。女はよりを戻そうとするが、男にはもはや女に惹かれるところがない。人間よりも、かつて恋をして、いま恋に破れたという経験自体に彼は没頭している。男の微笑は自己憐憫のそれであり、話は男の自己愛によって閉塞して終わろうとしている。



ところが、今まさに男の自己愛によって物語が閉ざされようとするとき、ある物体が男の後背に見えてくる。孤高にそびえる河原の木が、男の閉塞した営みを見守っているのだ。物語は男の内面に覆われたようでいて、最後の瞬間に、男は客観視される形になる。『八月のクリスマス』が遺影によってキャラクターの客観視を劇的に行った効果が、ここではより洗練された形で再現されている。誰かが見ているのである。


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過去や未来の自分を他人とみなすことは、時として何らかの倫理性を醸成することだろう。現在の自分の不摂生は未来の自分に重篤な影響を与えるかもしれない。この場合、もし未来の自分が同じ地続きの自分であると考えるのなら、倫理性は生じがたい。自分の体だから、どうしようと勝手である。しかし、未来の自分を他人と見なすのなら、そこに他者への責任が生じてくる。不摂生をするという決断を今のわたしは下すことができるが、未来の他人であるわたしは、過去の自分の下したあずかり知らぬ決断によって、災厄を被りかねない。


未来のわたしにとっては、他人である過去の自分の決断は、それに対して成す術がない以上、回顧的な祈りの対象として立ち現れてくる。過去の自分に対して、どうかその決断をしないでくれと願ってしまう。すでに下された決断に対して、あたかも下されていないかのように振る舞ってしまう。


わたしたちには、多かれ少なかれ、自己愛がある。だが、自意識の規制によって、わたしはわたしを愛することに躊躇がある。しかしながら、わたしは過去の自分を愛することはできる。過去の自分の境遇に同情し応援することはできる。彼は客観視された他人だからだ。では、同じく他人であるはずの未来の自分はどうか。同じように愛して応援することができるだろうか。未来の自分の様相はよくわからないので、これはむつかしいように思う。が、他人となった未来の自分について、確実なことがひとつある。現在のわたしは、他者である過去のわたしを心から応援している。同じように、他者である未来のわたしは、現在のわたしを応援していることだろう。