山崎努のロボットダンス 『日本のいちばん長い日』


敗戦の受容に至る道のりを俯瞰すれば、何かが尽力されたという感覚は東條内閣の倒閣プロセスの方にあって、宣言受諾と宮城事件はあくまでその結果であり、そこにアクターの選択の余地を見出すのはむつかしいと思う。喜八版にせよ原田版にせよ、密室劇の緊張を醸しにくい前提をともに負っていて、宮城事件についても、最初から成功の見込みがないように両作とも描画している。基本的に、事はもはや追認の儀式でしかない現象なのだ。ならば、それをいかにして困難で曰くありげに見せるか。これが喜八版の課題なのである。そして、原田版は喜八版との相違によって、喜八版がクリアしていった課題を浮き彫りにしている。


原田版における、喜八版とのもっとも大きな相違は、本木雅弘ブラックボックスの外に置いたことだろう。本木を政治的アクターとして万能に近いと原田版は解釈していて、しかも、その心理を焦点化しているため、相互作用の緊張は存在しがたく、決定プロセスに峻厳さが課せられない。むしろ話は心情の描写に傾注している。密室劇の緊張を求め難いのなら、心情に行くしかないからである。


対して、喜八版は松本幸四郎の心理をブラックボックスで囲う。突出したアクターを出さないことにより、他の政治的アクターの仕事に意味を与えようとする。あくまでアクターの相互作用に緊張を醸成しようとするのだ。


喜八版と原田版の相違は、決起将校の扱いにも見受けられる。人情に傾斜する原田版は叛乱将校の心理にも接近する。ところが、喜八版は彼らに人格を与えない。理解不能なものとして突き放してしまう。結果、喜八版には勧善懲悪の浄化らしきものが現れてくる。喜八版は、密室劇について締め切りの忙殺感を絶えず設定して、苦労したという実感の表現に余念がない。このため、それをぶち壊しにしようとする叛乱将校の無理解が強調されてくる。


有力なアクターの不在は、シビリアン側の孤立感を醸すことで、敗戦処理の過程というドメスティックな話題に普遍性を与えている。語られているのは、人間の意気地という現象だ。しかし、原田版は本木がアクターとして強力だから、仕事をしたという感覚が表現しがたい。もはやことは終わったも同然なのに、未だ何をバタバタ騒いでいるのか。宮城事件がそのような印象になってしまう。なかなか自裁しない役所広司にも間延び感は否めない。


事件は何事かを成したという実感もないまま、山崎努がロボットダンスのステップを踏むうちに、終わってしまった。この感覚は『あさま山荘』そのものだ。オッサンらが内紛の片手間に若者たちを片付けてしまう過剰な精力。それが今回は、山崎努のロボットダンスという、精力を持て余した老人の風情として現れているようだ。