惰行美人 『小さいおうち』


吉岡秀隆の登場場面は衝撃的だ。望遠圧縮された坂道の向こうから彼が出てくるのだが、姿を現したのはいかにもアカ崩れで芸大然とした長髪の男なのだ。マンガなのである。ところが、それに輪をかけて事態をおかしくするのが、この男に対する松たか子の反応である。松は一目でこのマンガにいかれてしまう。確かに、文弱に見える吉岡に男性的資質を付与するイベントは丹念に設定されている。台風イベント等で八面六臂の活躍が展開され、吉岡に対する松の反応は合理化される。しかし、それでもなお違和感は残る。吉岡の男振りが開示されるにともない、段階的に吉岡に対する松の好意が醸成されるのではない。あくまで、この資質が公開される前に性衝動は突き上がったのであり、吉岡の男性性は好意の補強に過ぎない。


松の衝動はいったい何か。なぜこのマンガに松はいかれたのか。これが物語の問題提起である。その答えは直截的で、つまり松は淫乱なのである。では、かかる淫乱性は何処から彼女に飛来したのか。中嶋朋子は学生時代の松をこう語る。


「時子は女学校時代から人気があってね、みんな時子が好きになってしまうの」


中嶋が示唆するのは、恋愛に困ることのない人間の中に形成された美人特有の性格である。美人の天然といってもいい。そこには対照的な不自然があって、マンガのような吉岡にいかれた松の不可思議は松の淫乱が昂ぶるにつれて裏返しになる。なぜ吉岡はこんな大年増に体を許すのか。


どちらにせよ邪念とはいえる。文弱がモテるのも年増が若い男にモテるのも。ただモテの信憑性において、そこには非対称がある。吉岡がモテるのはまだいい。松は年増だ。しかし、松の肉欲による蹂躙を吉岡がよしとするのが今度は分からなくなってくる。あるいは、吉岡に盛んにアプローチする松の自信が不可解である。松は自分が美人であることを知っていた。それを知るがゆえに自制がない。かつてはみんな自分のことを好きになってしまったのだから。女はもはやかつての自分ではないのだが、習性だけは惰行している。それはグロテスクとしか言いようがない。美人であることで希薄となった自意識がようやく贖われたのだ。


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妻夫木聡の造形がすさまじい。山田洋次はこの男の台詞に露骨な政治的配球を託してくる。倍賞が30年代の好景気を語れば、事実を曲げてはいけない、満州事変だ暗黒だと糾弾する。ところが「奥様の恋人」のことを知ると、生真面目な左派の学生のように見えた妻夫木は「赤紙! 戦争で引き裂かれる恋!」とハッスルしてしまう。妻夫木の思考に政治的な含意はなくて、なにか悲劇めいたもの、スペクタクルめいたものに対する関心が彼を突き動かすのである。


劇中に妻夫木が事故で入院する挿話が出てくる。姉の夏川結衣が倍賞に愚痴を言う。毎日、違う娘が見舞いに来ると。妻夫木は松とともに、美男や美女の自意識のあり方を分け合っているのだ。妻夫木聡として生まれること、松たか子として生まれることがどういうことなのか、われわれに教えてくれるのである。