自助が可能となる場所 『ゴモラ』


仕事ができないという属性をキャラクターに設定すると、次に、無能という負い目によってどのような恥辱や被害がもたらされるのか描画する必要が出てくる。課題を解決しようとする意欲がそこで具体的となり、わたしたちの共感が生まれる。


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ドン・チーロは組織の運び屋である。この初老の男は構成員の家族と遺族に金を配って糧を得ている。配金に回るたびに、カスタマーたちは給金の乏しさを彼にぶちまけてくる。男には意気地がないため、この歳になっても下っ端の仕事をやらされている。それを知るがゆえに人々は堂々と彼を侮辱できるのである。


物語はここでふたつの課題を提起している。ひとつには、もちろんドン・チーロが直面している問題で、彼が日々屈辱を受けることでかかる課題が醸成されてくる。


いまひとつは、彼を侮辱するカスタマーたちが受け手であるわれわれに与える印象に関連している。彼らは弱者であるゆえに男を虐げている。これはあまり倫理的な振る舞いだとは思われない。つまり、ドン・チーロがおのれの弱さとどう向き会いそれを乗り越えて行くか。この問題のほかに、彼を虐げるカスタマーたちを罰したいというわれわれの欲望に働きかけてくる課題があるのだ。彼らに憎悪が向くよう物語は受け手を誘導するのである。


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恥辱は我慢すれば済むものであれば、課題の醸成にはなっても解決行動を促すことはない。行動を促すのは解決できなければ生死にかかわるイベントの生起である。抗争が勃発するのだ。


男はここで初めて行動を起こす。敵対組織に赴き命乞いをする。男には力がないゆえに事態に責任がない。責任のないものに責任を負ってしまう。これは不条理だ。ところが敵対者の理屈は違う。手前は組織に養われてきたという理屈になる。


男にはここで初めて選択の余地が提示される*1。組織を売るかどうか。男が放り込まれたのは自助努力の物語であり、それを可能にした選択と自由の物語なのだ。


組織を売る決断を下した男には遅すぎた通過儀礼がやってくる。全てが終わった後、屋外に出ると死体が四方に転がっている。


過酷な救済はさまざまな浄化をもたらしている。われわれ自身である男が物理的に救われたことがうれしい。自分を苦しめてきた構造が自分の決断によって滅ぼされたことがうれしい。もたらされたのは、報復の成就であり、かつ自らの力がようやく承認された感覚である。