ブライダルビデオ、極限へ 『ザカリーに捧ぐ』


物語から提示される課題はふたつあるように見える。ひとつは怪物のエスカレーションの不可解さである。彼女は自らの命を犠牲にしてまで嫌がらせを敢行する。これが理解に及ばない。彼女は何を破壊しようとしていたのか。


課題のいまひとつは父親に負わされる人生の課題である。怪物に襲われたことの不条理にどう耐えるか。意味のないことにどう耐えるか。父親は事件を社会化することによって、かかる不条理に意味を見出そうとする。ところが、わたしたちが父親の闘いを通じて目撃するのは、不条理と対決するうちに当人が不条理に感染してしまったような、困惑を覚える事態である。物語はこの出来すぎた父親を聖化するに至り、人であらざる者に祭り上げてしまう。


これはブライダルビデオといってよいだろう。映画としての品質も含めて。美談という価値観を以てしか現象を把握できないフォーマットで物語が編成されている。被害者の関係者は善人の集団意外に描きようがない。しかし、扱われる事件は美談とは遠く離れたものであり、美談にしてはいけない現象である。


ブライダルビデオが一部のシニカルな人々に与える印象がある。善というものの本質的な垢抜けのなさがそれである。本作のブライダルビデオ性も、事件の責任を被害者側が共有するかのような印象をもたらしかねない。息子は彼女をサイコパスだと判断できなかった。善人の集団に育まれた彼は正常な判断力を育めなかった。


事件の顛末は冷酷である。父親は怪物に息子を奪われる。遺された孫が生きがいになる。それすらも同じ怪物に奪われる。彼は超人的な努力で事態の克服を試みる。ただ、この不条理に対する物語の態度も冷酷に見える。語り手は彼の存在を奇跡だと称賛する。その存在が勇気を与えてくれると。とことんまで、この男のひどい人生を利用し尽くそうとする。


わたしにはこの価値観が受け入れがたい。しかし、物語の態度に憤りをおぼえたとき、物語は確実に怪物の心理に接近している。怪物が命を賭してまで破壊したかったものがまさに提示されるからだ。女が破壊したかったもの。それは本作の究極のブライダルビデオ性の証たる美談の網羅力の貪欲さではなかったか。あるいは、起こってしまったからには利用せずにはいられない根源的な貧乏性ではなかったか。