失われた人格を求めて 『鎮魂』と『血別』

血別 山口組百年の孤独
鎮魂 さらば、愛しの山口組 (宝島SUGOI文庫)
太田守正『血別』と盛力健児『鎮魂』が共有する問題意識は、渡辺芳則という人物の解明にある。盛力本は渡辺を批判し、太田本は盛力本を批判することで渡辺を擁護する。この両者は渡辺という人物の造形構築について補完関係にある。ところが、両本を参照したとしても渡辺の人物像はつかみ難い。


わたしは岸本才三がすきだ。盛力本には幾度か彼が登場する。その扱いは好意的である。盛力が執行部に話を通すとき、岸本が窓口となって登場する。わたしたちは岸本の日常業務の一端を知ることができる。だが、太田本を参照すると、盛力本だけではわからない意味合いがこの風景から見えてくる。


太田本において盛力は長期服役の単調な生活で人格を破壊された人物として登場する。彼は正常な判断力を失っており、ヤクザに群がる詐欺師の話に幾度も引っかかるばかりか、それに周囲をも巻き込んでしまう。他の直参からは相手にされておらず本部では孤立している。ただ岸本だけは立場上、彼をハブるわけにはいかないのである。


太田本に登場する渡辺は盛力について冷淡である。盛力を「やっぱり、だいぶボケてるな」と彼は評する。盛力が渡辺を批判する動機は明らかだろう。しかし、盛力本に戻ると、渡辺に対する盛力の非難に不可解な印象が出てきてしまう。盛力は渡辺の人間性を糾弾するのだが、出所の祝い金が少ない、執行部に入れない等の不満は、太田本の盛力像からすると渡辺の欠陥とは必ずしも言えない。人格批判と解せるものは、三代目の仏壇に礼を失しているといった些細なことばかりで、渡辺の人格が具体的に組織に害をなす様が見えてこない。渡辺の人柄を伝える情報量が盛力本に不足するがために、批判の対象となり得るような明瞭な人物像が描けず、批判が成立しないのである。


盛力本だけでは渡辺という人物が解らない。彼はいかなる能力で以ていかなる仕事をしていたのか。この謎を集約するかのように、盛力本の最後では岸本が渡辺に対して辛辣な評を投じている。


「あんな自分勝手な男、俺は見たことない」


ふたりの間で何があったのか。盛力本では語られないが、太田本には示唆がある。盛力とは違い太田は岸本に批判的である。岸本は渡辺を悩ませていたと太田本は指摘する。国税の査察や改正暴対法についてネチネチと悪い方向にばかり解釈して渡辺を苦しめたという。この辺はいかにも岸本らしく、微笑ましく思われてしまうのだが、渡辺の人物造形についてはひとつのヒントがある。実務に弱い印象が出てきてしまう。


太田本は渡辺のかかる側面についておそらく自覚的だ。太田本はこれを取り繕うべく、組織人としての渡辺を描画しようとする。ところが逆効果なのだ。渡辺の役割が幕藩体制天皇機関説といった抽象的な言葉で説明されるばかりで、仕事の具体的な内容には言及がないのである。しかも機関説という説明の内容自体が渡辺の無能力を暗示してしまう。太田本も組織人や仕事人としての渡辺をつかみかねている。描かれるのは、いかに彼がお茶目だったかという他愛のない日常エピソードばかりである。


盛力本における司忍の人物造形と比較すれば、渡辺の印象の薄さは際立つ。盛力本の事実上の主人公は司忍である。彼はそれだけ盛力本の中ではキャラが立っている。


司は手先が器用である。同じ刑務所に服役したとき、盛力に見事な貼り絵を送っている。仕事で一億が入用になった盛力が司に泣きついたことがある。翌日には1億円がきっちりと用意される。「帯封された100万円の新札の束の積み重なったレンガが上下に10個、ピッチリとビニールで包まれておった」と盛力は感嘆する。


弘道会の地下にはプールがある。司はそこで運動に余念がない。直系の組員には組の費用で3か月間、集中的にインターフェロンを投し、全員のC型肝炎を治した。弘道会には秘密部隊があって捜査員の個人情報を集めている。いかにも仕事ができそうなエピソードに事欠かない。


宅見勝の後継として、盛力が司を岸本に推薦する件がある。盛力に言わせれば、頭補佐の中には司以外に人がいない。組織の実務者としての権能が宅見から司へ継承される様子がそこから見えてくる。一方で太田本は司への継承を棚から牡丹餅だと見ている。太田によれば、宅見の後継の本命はあくまで桑田兼吉であって、桑田が獄中にあったために司に順番が回ってきたとする。


いずれにせよ両者とも宅見の実務的な造形については見解が一致している。


盛力本は渡辺に対する宅見の振る舞いを戯画的に描写している。「今日は機嫌よくしときなはれや」、「今日はちょっと(機嫌) 悪うしときなはれ」、「右向きなはれ」、「左向きなはれ」と渡辺を操縦していたという。


盛力本の見解では、宅見が健康を害して渡辺に引退を申し出ると、渡辺は100億を要求したという。宅見はこれにキレてクーデターを画策するも、あの顛末となってしまった。


太田本はこの解釈を採らない。渡辺と宅見の仲でこの話はあり得ないという。ここで宅見の造形にかんするエピソードが出てくる。姐さんの焼肉屋によく通ってくる太田によろこんだ宅見は、彼に財布を送る。太田はそれにかこつけて、小遣いをねだってしまう。


「頭、わしこれ、中身がないと使えまへんのやけど」


「うん? そうか。おーい、100万円持ってこい」


その後、本家に顔を出した太田に渡辺が言う。


「おまえっちゅうやつは、厚かましいやっちゃなあ。頭から聞いたで。みんなで爆笑してたところや」


渡辺が宅見を「頭」と役職で呼んでいることに注目したい。彼は宅見を立てている。盛力本は極端にしても、実務面の印象の薄さも相まって、宅見に対する渡辺の依存がここでも見えてくる。「100億置いていけ」という話はなかったとしても、宅見を欠いたらどれほど困難になるか、それを象徴する寓話として解釈はできよう。事実、太田本の岸本批判から窺えるように、暴対法以降の世界で宅見を失った渡辺は窮することになる。太田本の見解通り、宅見の遭難に渡辺の関与はなかったと見る方が説得的に思えてくる。その一方で、宅見の遭難については裏が見えなくなってしまう。太田本は盛力本の推論を根拠がないと批判するが、遭難の背景について歯切れが悪い。中野会の吉野和利が中野太郎の頭就任を目指し暴走したと太田本は推測している。