鳴動するオッサンの辺にて 『進撃の巨人』


人に挙動がなければ、そのキャラの人となりを知ることができない。挙動を引き起こすには事件が必要だ。キャラの性格造形は事件に対するその人の反応の仕方を通じて描かれる。


この理屈からすれば、冒頭の15分が奇妙なのである。謎の高原をエレン一行が遊山している。彼らがいかなる人間でここはいかなる舞台か、ある意味で執拗な説明が対話を通して行われる。ところが、この間、事件は何も起こらない。ただ対話があるのみである。造形説明に事件を利用しないこの感覚は純文学に近く、逆に事件が起こってしまうと、途端に事件へのキャラの反応が画一化し、彼らは喧騒の内に埋没してしまう。巨人の対応にリソースが割かれ、キャラの個別化に手が回らない。ただ逃げ惑うばかりなのだ。


事件の起こらない平時における個別化への執拗な意思は、語り手の自覚を窺わせる。この若者たちがそもそも個別化のむつかしいあり方をしている。ゆえに彼らは主張を激せねばならならず、主人公たちの後背ではモブキャラが自らの造形を主張する挙動を事あるごとに展示する。現場中継するキャスターの後背でしばしば行われるアレである。


個別化の希薄さは、物事を動かす実感を得られない現場の焦燥と関連がある。若者たちはただ状況に反応しているだけであり、主体性のなさをカバーすべくオリジナルキャラとして投入されたオッサンらが状況を主導して、若者そっちのけでどつき合いをする。これは確かに楽しいが語り手のエゴである。最後のエレンとミカサの邂逅に実質が伴わなくなってしまう。オッサンが事件を引き起こしそれをオッサンが始末したのであって、彼らはその周りでオタオタしていただけなのだ。


若者たちの個別化の薄さは巨人の造形の立ち方と対照を成している。巨人らは個性を展示する必要がない。ただ歩いているだけでそれらの人となりが激烈に伝わる。



この映画でわたしが最も好きな絵は高原に屯する巨人たちの遠景である。


どうして彼らのキャラが否応なく立ってしまうのか。文芸的な観察に値する事情を彼らこそが抱えているからだ。彼らにはかつて人間としての日常があった。それがいきなり知性を失い、かかる醜悪な事態に放り込まれてしまった。これを超える不条理が作品に見当たらない。高原の巨人たちに惹かれるのは、失われた知性の残滓がそこに見えるからだ。


文芸的観測に忠実であるべきなら、巨人たちがかつて人間であった地点にまで物語を掘り下げるべきだ。しかしあくまで巨人たちに対応する人間の物語にしたいのなら、特に外貌の面において、巨人と若者の立ち位置を逆転するべきだ。


三浦春馬とか桜庭ななみとかもってのほかで、これは大地康雄フィリップ・シーモア・ホフマンやブシェーミによって演じられるべきだろう。そして、巨大な宮崎あおいの群れに追い込まれ、恐慌を来す康雄とシーモアとブシェーミの前に後光さしながら現れるのが、ブリンナー、マックイーン、ブロンソン、コバーン。これは別にスタローン、ブルース・ウィリスチャック・ノリス等々でもいいぞ。演出はマイケル・ベイ