報いの技術 『サウルの息子』


タイトーのスカイデストロイヤーがすきだ。このゲームには主人公補正の不条理さがよく表れている。ゲームの中でわたしたちが搭乗するのは機銃と魚雷を無限に積んだゼロ戦である。対するF6Fは謎の火球一発を放ってくるのが関の山である。


『サウル』の画面はサードパーソン・シューターを連想させる。カメラは主人公の周囲にとどまり彼を追従し続ける。カットは基本的に分断されない。ゲームとは違うところもある。サードパーソン・シューターは広角とパンフォーカスで見通しを確保する。サウルは逆に後ろボケで情報を遮断し、男の自閉性を表現する。その視野狭窄から受ける印象は概してよくない。


物語ではふたつの計画が並走している。サウルは彼の息子とされるものを正規に埋葬すべく奔走する。その周辺では脱獄の計画が進められている。どちらの計画がわたしたちの興味を惹くか、これはいうまでもない。この極限状況で“息子”の埋葬に執着する動機がまずわからない。画面の自閉性によって、サウルがすでに正気を失っていることは伝わってくる。埋葬への執着はその症状のひとつだろう。しかし、サウルの心理が合理化されようとされまいと、脱獄の計画に比べれば興味が湧かない。ところが、物語はサウルの執着の方をフォローする。


苛立たしさはサウルに与えられる恩顧にも感ぜられる。サウルの埋葬計画は脱獄計画をしばしば妨害する。もはや正気を失っているから行動が無軌道になる。けれども、ちょっとした逸脱で即座に脱落するモブキャラに対して、サウルは幾度もトラブルを起こしながら罰せられることがない。周辺の好意を失うこともない。むしろ、語り手の恩顧に彼は甘えているように見える。そもそもゾンダーコマンドである時点で主人公補正が働いているのだ。


主人公補正の露見はわたしたちの共感を拒絶する。実人生にあってわたしたちは主人公ではない。モブキャラである。映画は主人公補正から彼を引きはがしにかからねばなるまい。


終盤でサウルはどさくさの内に脱獄に成功し、主人公補正をあからさまにする。しかし森の納屋に逃れると、カメラは納屋の入口に対して不自然な尺で固定され、サードパーソン・シューターのような映像文法に変化が訪れる。今からこの入口から何か出てくると画面が訴え始め、恐怖映画の文法が立ち現われる。果たして、現れたものを見てわたしたちはぞっとする。“息子”を仮託するような幽霊然としたものをそこに見てしまう。サウルはその仮託物を見て徒労となったはずの自分の尽力が報われたことを知る。


恐怖映画の文法を経由することでサウルの周辺から脱したカメラは、息子の仮託物とされる少年に憑依する。立ち去る少年に追従しながらカメラは納屋を離れ、サウルは映画の視野から外れる。納屋の方角から聞える銃撃が脱獄の失敗を伝える。


彼もまたモブキャラの一員だったわけだが、そのモブキャラ性こそ報われたという認知を彼にもたらしたものでもある。納屋の入り口からサウルを眺める少年の不思議な視点は、見ていたという感覚をもたらすものだ。サウルの側からすれば、自分は見られていた。この不条理の中でどれほど尽力していたかを。


誰かが見ていたという感覚は主観的な視点からは生じがたいだろう。映画が少年の周囲へ憑依してサウルの主人公補正を奪わないと、見ていたという感傷は出てこないのである。