その残骸はかつて美少女だった 『海街diary』


本作における長澤まさみのウエイトを考えれば、イメージビデオと見紛うような冒頭のカットがよくわからない。映画が始まると、鶏ガラのような脚を画面が舐め回す。それはかつて長澤まさみと呼ばれた美少女の残骸である。ここまで執拗に長澤の脚を舐めるのだから、これは彼女の物語かと誤解してしまう。ところが夏帆と同様、長澤がなくともこの物語は成立する。これは綾瀬はるか広瀬すずの物語であって、このふたりに長澤が有機的に組み込まれることはなく、すずと長澤の間には基本的に交渉がない。いや、おそらくあったはずだが印象に残らず、互いを無視をしているような気まずさがあり、物語が長澤を持て余している様に見える。わたしたちは彼女が信金の窓口係だと知って、そのあり得なさにギョッとしてしまうのだ。冒頭の長澤のイメージビデオは、それこそイメージビデオにおいて被写体の挙動に意味を求めるのが徒労であるように何の意味もない。


長澤の挙動には美人の不自然さがある。それは彼女が物語に組み込まれていない証左である。すずの実家旅館に着いて「びーる、びーる」とわめく喧騒がいやだ。『セカチュー』や『タッチ』から時が止まったように、自分が美人であることを知っている長澤は、ただ喧騒を引き起こせば自分が絵になると信じている。しかし通じないのだ。あの美少女の通力はもはやどこにもないのである。彼女の過大な自己評価が見透かされ、苛立ちを誘われる。天然を演じるという美人の不自然の語義矛盾が露わになる。


他の是枝作品の例に漏れず、本作にはハリボテのような造形の人間しか出てこない。しかし、福山雅治のマンガのような造形が無理筋としか思えないネグレクト劇に緩急をつけたように(『そして父になる』)、本作でも造形のハリボテ感が美人の不自然を余すことなく表現するのである。


冒頭の不自然な長澤の身体から始まった映画は、やはり彼女の不安定な身体を印象付けて幕を閉じる。それは鎌倉の小汚い浜辺を歩む四人姉妹の遠景である。長澤の不自然に長い手足が危ういバランスでその胴体を運んでいる。彼女の蜃気楼のような姿はもはや緊張の域に達している。画面は他のシーンも概してそうであるように蒼白である。まるで是枝裕和のスペルマが付着したかのように。


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これは美少女の高慢の物語である。長澤の自己評価は過大だと思うが、広瀬すずが自分を美少女と評価するのは正当である。美少女そのものだからだ。しかし、この美少女性もまたひとつの惨劇である。


彼女は吐露する。わたしの存在が人を不幸にしていると。この発想には美少女の高慢がよく体現されていて、自分をどれだけ重く評価しているのかと苛立つのだが、かつての長澤がそうであったように超ド級の美少女であることは事実だから無理もない。問題はかかる美少女性がこの物語を無理筋にしてしまう点だ。自分がどれだけ苛まれているかこの美少女は綾瀬はるかに訴える。これはあり得ない。年増とはいえ長澤が信金の窓口にいてわたしたちをギョッとさせるように、こんなあり得ない話はない。広瀬すずとして生まれ落ちただけで、どれほどの勝ち組であることか。この一点ですべてが作り事になってしまうのだ。


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四姉妹を周遊するオッサンらもハリボテ感が著しい。ただ、オッサンにそれが適用されると、一様に鬱病患者のような挙動として現れてしまうのが興味深い。特にリリー・フランキーはやり過ぎでわらった。