批評する現場 『シン・ゴジラ』

シン・ゴジラ』は会議室映画ではない。むしろ管制室映画の成分が濃厚である。作中でも語られる通り、第1形態に対応する会議ではすでに結論が決まっていて、情報を集約し共有する場として活用されている。それはあくまで管制室であり、会議を娯楽物にする対立者というファクターに欠ける。そのため会議場面の構図やカメラワークは単調さを免れない。陣営が別れていれば、画面はそれぞれの陣営の面容を補足すべく多様な構図や運動を許されることになるが、対立軸のない本作の会議は商業セルアニメのように画面が静的である。



『フェイル・セイフ』は会議室と管制室の成分を明瞭に分割している。大統領の執務室ではヘンリー・フォンダソ連側の説得を試み続け会議の娯楽を担う。他方で管制室という娯楽は作戦司令室が分担し、会議室と管制室が並走する。


シン・ゴジラ』における政策の対立は、多国籍軍や核の使用をめぐってようやく発生する。本当の会議が行われる場所は官邸ではなく、国連のファシリテーター・プロセスや安保理の非公式協議を行うコンサルテーション・ルームにあり、したがって代表部の参事官や書記官といった人々を登場させるべきだろう。安保理のコンサルテーション・ルームに画面を割り振ったら、それこそ冒頭の官邸とは様変わりした本当の会議室映画を目の当たりにできたはずであるが、外交の現場を本作は抽象化してしまう。そもそも尺が足りそうにない。


しかし尺の問題に目を向けると、切り詰めたように見えて、説明的で感傷的な台詞が多いことに気づかされる。


変転する事態に反応して、マンガのような挙動を引き起こして驚愕をアピールする人々に丁寧に画面を振ってしまうのは、それはそれで風刺になるとはいえ、感情をこれでもかと説明しないと伝わらない商業セルアニメの強迫観念を引きずっているように見える。


官僚が行政手続きの煩雑さを嘆き、同僚が民主主義が云々と返す。そんなものは見ていてわかるのであり、言葉で説明する必要があるとは思えない。危機管理の現場で忙殺する官僚がそんなことを言うのも違和感がある。会議をしないと進まない有様に「なにをやってるんだ」と嘆息されても、それは手前が何とかするべきことであって、他人ごとに見えてしまう。核の使用について「怪獣よりも人間が云々」と現場で批評をやるのもよくわからない。これに限らず、多くのキャラクターが直面した状況について批評をやりすぎで、エヴァ破の終盤、翼をくださいの赤城博士の饒舌のように、語り手の悪い癖が出ていると思う。


この映画で本当に仕事をしているのは官房長官柄本明だけかもしれない。彼は批評をやらない。批評をやる暇がないのである。このことはキャスティングの無駄の多さを示唆している。