僕らはみんな死んでいる 『ガールズ&パンツァー 劇場版』


ウォシャウスキーの『スピード・レーサー』を連想したのである。CGI車輛と本編が絡む構成が類似している。もっとも、多くの商業アニメと同様に『ガルパン』はCGIとセル芝居のカットを基本的に分離する形でシーンを構成しているので、『スピード・レーサー』の方がCGIと役者の連携に配慮しているように見える。他方で『ガルパン』のCGIには重さがある。競技車と装軌車輛の違いもあって、両者を比較すると『スピード・レーサー』のCGIは軽すぎる。


ガルパン』の戦車の挙動が『スピード・レーサー』を想起させてしまう点で明らかなように、作品に登場する戦車とはあくまで戦車と称されるものであって、実物の戦車とは関連のない別物と考えるべきだろう。劇中のそれらの機動はわれわれが教則を通じて知っているような挙動からは離れている。人が死なないという前提によって危険に対する鈍磨があり、中学生のサバゲーに類するような乱戦が多くのアクションを構成している。たとえば援護という概念がこの作品には薄い。冒頭で突撃する知波単が無謀だとしても、相手の頭を抑えるために周囲は援護をすべきだろう。本作のサバゲー的カオスは挙動を様式で固める道という思考と矛盾している。



スピード・レーサー』を連想させるところは他にもある。『スピード・レーサー』はレース事故で死んだ兄の背中を弟が追う話であり、全編に兄の死という不吉な影が漂っている。『ガルパン』では、終幕の乱戦でみほがまほの背中を偶然追う形になるカットが出てくるが、全く意味合いが違うとはいえ、兄の幻影をレース中に追ってしまうスピードが重なってしまうのである。


スピード・レーサー』は競技者に厳重な保護措置があることを劇中で強調する。それがかえって事故死した兄を浮き彫りにしてしまう。『ガルパン』も同様である。キャラが死から隔てられると、それだけ不穏さが増してしまう。戦車道は殺し合いそのものを模倣する。『スピード・レーサー』よりもまして保護措置は厳格になされるべきだろう。しかし『スピード・レーサー』が保護措置の作動する有様を劇中で幾度か展開して見せるのに対して、『ガルパン』は保護措置の存在を設定しておきながら、実際の画面では措置の存在を隠匿している。搭乗者に危害がないという結果の明示を以て措置が働いたことを示すのみで、措置の機序については言及がないように見える。


搭乗員が規定の装甲材に覆われた砲塔内にとどまり、レギュレーションのかかった砲弾を撃つ合うだけならば、わたしにはそれだけでもおそろしいのだが、保護の機序を殊更に描く必要はないのかもしれない。だが、キューポラから車長が乗り出した状態ですれ違わんばかりに対向車に近接し、中学生のサバゲーのような機動で撃ち合うとなると、露曝者の安否を気遣わざるを得ないが、かかる搭乗員に対する安全措置を示唆する描写が劇中には見当たらない。むしろそれは興ざめとして演出上あえて言及しないように思われる。


戦車道の安全性についてどうしても議論が発生してしまうのは、劇中のサバゲー的挙動と搭乗員が被りかねない危険度が矛盾しているように見えるからだろう。死なないからサバゲーのような大胆な挙動が可能となる。ところが、戦闘の真実味を担保するために搭乗員に対する安全措置は隠ぺいされる。結果、不穏当で不吉な死臭が競技を超えて日常までも侵食する。ボコと呼ばれる継ぎ接ぎのぬいぐるみ。廃園の遊園地。学園を乗せた巨艦。


下肢と頭部を露曝させた状態で戦車に搭乗する娘たちが痛々しい。砲弾を撃ち合うのならまだしも劇中の戦車は頻繁に横転して、安全措置への懸念は装甲材云々の話では収まらなくなる。車内にはカースタントを前提とすべき措置があるべきであり、搭乗者はベルトで固定されてしかるべきである。しかしかかる措置は皆無であり搭乗者はあの軽装のまま車内に錯綜する突起物の蹂躙をその身体に被るのであるが、横転の終わった車内に画面が振られると搭乗員に目立った外傷がない。彼女らは普通の人間ではないのだ。最初から死んでいて、それに気づいていないのである。あるいは、われわれが見ているのは仮想空間にコピーされた人格たちの遊戯だろうか。


ノンナの離別にうろたえるカチューシャの動揺がよくわからない。だかがサバゲーなのにあたかも本当に死人が出かねないような悲壮さが劇中から浮いている。これはカチューシャの精神遅滞を示すものと解釈できるが、それは別の意味で正しい。頭が弱いゆえに物語の不穏な有り様を感じ取ってしまうのである。


わたしはアンチョビがすきだ。彼女は下肢を露曝しないからである。わたしは継続高校が好きだ。フィンランドに思い入れがあるからではなくジャージだからだ。特にあそこの操縦手はスカートの下にジャージである。わたしは秋山優花里がすきだ。おそらくあの頭部のボリュームに安全性を見ているからだろう。彼女たちは死臭漂う劇中にあって生の拠り所となっている。