邪念の呼び声 『花のあと』


正反対の資質を持つ二人の男が投入され、どちらが社会的な淘汰圧を耐え凌ぎ生き残るか、それを試そうとする映画なのである。イケメンの体育会系、宮尾俊太郎北川景子が惹かれてしまう。ところが彼女には許嫁の甲本雅裕がいる。この男二人の対比がマンガなほどわかりやすいのだ。




宮尾の凛々しい姿態を散々に見せつけた後に甲本が江戸から帰ってくる。北川にセクハラするわ食い意地が張っているわで、これで性格が悪ければ話は簡単なのだが、困ったことに甲本は善良そのものでもある。受け手へ訴求する資質について、二人の間には競合の余地が残されているのであり、どちらの資質について語り手は好意を寄せているのか気になってしまう。フランクな文系男の甲本に移入せざるをえないわれわれとしては、彼の大勝利は望むべくもないとしても、悲劇的な脱落だけは避けてほしい。語り手の価値観を推測することがスリラーとして働くのである*1


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本作の北川景子の芝居は品が良くない。教育によって彼女は不平を直截に呈することはない。代わりに顔容が感情の指標として使われていて、八の字眉が連発する。景子の印象が悪いために、彼女に入れ込まれた宮尾への心証も悪くなる。


作品の顔力への傾斜は亀治郎の登壇で極限に達する。お得意の新劇崩しの芝居で亀治郎の顔面はその登場場面をことごとく笑いの渦に叩き込む。景子の顔芝居は亀治郎の余波なのだ。


感情表出について印象が好ましいのはやはり文系のブサメン甲本の方で、宮尾への北川の恋慕を悟った彼は笑いで動揺を誤魔化しつつ足取りを一瞬ふらつかせる。これもマンガといえばそうなのだが。


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仕事人としてのこの二人の能力を試す藤沢周平のスタンスは、当初は曖昧にされておきながら結果はわかりやすく残忍である。体育会系の宮尾は官僚機構には全く適応できない脳筋とされ最期は自刃する。愛する宮尾の顛末に気が気でならない景子は、真相の究明を甲本に依頼する。ここで藤沢のスタンスが明瞭になり始める。究明するという活動が甲本の有能さを展示するための手段となる。


景子厳父の國村隼がなぜか甲本と馬が合うという謎が序盤で出てくる。この伏線が回収されるのであり、当人の意図ではないとはいえ、結果的に景子は男選びに関して正しい選択をしていたのではないか。そういう展開になってくる。


体育会系と文系の相剋において亀治郎は境界的な人格をしていて、ゆえに彼は媒介者となる。誰よりも官僚機構に順応する亀は無楽流居合いの遣い手でもある。宮尾を罠にはめた黒幕であった彼は、報復として挑まれた景子に傷を負わせる。これが甲本による傷の手当プレイという常套イベントの発起となり、その頼もしさに景子ならずともメロメロである。


後日談に入ると文系の自惚れはとどまるところを知らなくなる。われわれの分身たる甲本は後に筆頭家老まで出世を遂げたと開示され、景子は男選びで大勝利したことが判明する。こんなに気持ちよくていいのか不安になるとともに、宮尾を文系称揚のための単なる踏み台とした藤沢の邪念と冷酷さに震え上がるのである。