同時多発通過儀礼 『天空の蜂』


本作('15)と『BRAVE HEARTS 海猿』('12)と『シン・ゴジラ』('16)を震災トリロジーと呼んでいいだろう。ともに震災に感化された公務員賛歌である。他方で、全くの偶然ながらこれらの間には『新幹線大爆破』の影が見え隠れする。


海猿』と『天空の蜂』はパニック映画に準拠する点でまず一括りにできる。そして『天空の蜂』は『新幹線大爆破』の事実上のリメイクなのだ。新幹線がヘリと原発というガジェットへ翻案され、『新幹線』同様に爆弾処理と並行して爆弾犯を追う捜査シーケンスが展開される。


シン・ゴジラに対する『新幹線大爆破』の影響経路は欲望で歪んでいる。シン・ゴジラの語り手たちはかつて『新幹線』のレーザーディスクのブックレット上でリメイクを作りたいとハッスルした。劇中で爆破されることのなかった新幹線は、40年の時を経てN700系爆弾としてゴジラに突入しようやく爆発できたのだった。


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『天空の蜂』は『新幹線』のフォルムにあくまで忠実である。ゆえに両者を比較すると、『新幹線』の良きところ、『天空の蜂』が『新幹線』を継承しようとして果たせなかったところ、逆に継承し発展させたところがよくわかる。


『天空の蜂』のよくないところ。それはモックンの動機の弱さに尽きると思う。共感がむつかしいのである。


父の職業に向けられた迫害の余波で息子が自決してしまった。モックンは息子の自死を社会的な文脈で把握して原発を人質にする。ところがモックンには職業を選択できたのである。かかる職業を選択せねば事態は回避できた。息子の顛末にはモックンにも責任があると解釈できて、それを他に転嫁しようとすれば、彼は責任を受容できないように見えてしまう。


対して『新幹線』は誰にも責任を負わせようとしない。キャラクターたちは語り手の恣意性に翻弄される*1。沖縄から集団就職で上京したヒロシは行く先々で会社を倒産させる。これは彼の責任ではない。佐藤純彌の散漫な気質がそうさせるのである。高倉健は純彌の散漫な気質を伝播させることで報復を目論み、宇津井健がその巻添えを喰らう。


『新幹線』には大人しか出てこない。誰も事案の生起に責任がない。にも関わらず誰も仕事人の全うを破棄しようとしない。ヒロシの不幸体質という宿命を分散してみんなで担おうとする。『新幹線』は大人というあり方に対する審美的な評価を行うのである。対して『天空の蜂』はモックンに大人を全うさせようとしない。


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社会的な文脈から演繹され構築されて絵空事になってしまった犯人の造形とは対照的に、『天空の蜂』では『新幹線』の捜査シーケンスがより精緻化されている。『新幹線』の現場捜査員にたいする眼差しは侮蔑に近い。『天空の蜂』には語り手の同情がある。公務員に対する移入は震災映画の証だ。


シンゴジ以後からすると『天空の蜂』の序盤の停滞ぶりは目を覆わんばかりのものである。シンゴジはわずか十数カットで水蒸気の噴出に至る。『天空の蜂』は序盤15分、話が進まない。ところが一端転がり出すと、キャラクター造形の点でシンゴジよりもはるかに優れたパフォーマンスを発揮する。


爆弾処理と並走する捜査シーケンスもまたふたつのサブシーケンスに分割される。愛知県警の手塚とおる松島花福井県警の柄本明&落合モトキである。


名古屋組の手塚とおるは相変わらずのマンガである。これがクールなのにギア方言の松島花と組み合わさることで有能さという現象の多面性を描画する。


福井県警の柄本明原発所長の國村隼と相まってシンゴジとの連なりを否応なく意識させてしまう。この二人はシンゴジに登場したほとんど唯一の大人たちである*2。状況を批評せずにはいられない現場にあって彼らは批評を行わない。


『天空の蜂』の柄本明もその特性は同様である。


シンゴジは大杉漣柄本明の介助によって大人になろうとする物語である。『天空の蜂』は落合モトキが柄本明の介助によって大人になろうとする物語である。そして大杉漣も落合モトキもその途上で落命する。宿命を受容する大人の様態を扱った『新幹線』に対して、『天空の蜂』は大人に至る過程を注視するのである。


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柄本明大沢たかおのキャスティングの絡みで笑ってしまった事があった。柄本はその脇役属性から上記作品に限らず主人公の行動の介助することが多い。


解夏』の大沢たかおベーチェット病で視力を失おうとする。そこに失明者の柄本明が指南役として登場して、どんな最悪の事態があり得るかたかおを散々に脅す。これが『桜田門外ノ変』では一転してたかおの無軌道に柄本が巻添えを喰らい渋面を作らされる。報復だとわたしは思った。『桜田門外ノ変』の監督は佐藤純彌である。