離断なき絆 『君が生きた証』


劇中の人物の行動に不審がある。これが合理化されるのは受け手にとってたいへんなよろこびだ。しかし事情が明らかになっても、受け手がそれまでに不審を覚え続けたという事実と経験は変わらない。すでに過ぎ去ったことなので、取り返しのつきようがない。しがって、われわれがキャラクターの行動に不信を感じ続けているまさにその時間において、かかるストレスを緩和する措置が並走せねばならない。


本作における受け手の不審とは何か。ビリー・クラダップのバンドはビリー息子の書いた曲でのし上がる。ビリーは曲の出自をメンバーに明かさない。息子は銃乱射事件で落命している。ビリーはなぜその開示を拒むのか。バンド活動を通じて息子の喪失から立ち直るビリーとバンドがのし上がる過程の享楽がこの不審を紛らわす。それが前半の構造である。


中盤に入ると作曲者の開示を拒む理由が明らかになってわれわれはたまげる。しかしその驚きの性質が問題なのである。驚いたのは予想ができなかったからだ。語り手は開示される事実を匂わせる情報すら隠匿していた。伏線を伏せすぎて回収したという実感に至れず、アレがそうだったという感激に乏しいのである。隠しているのだから驚いて当たり前なのだ。


語り手が受け手に望んだこと。それは息子が乱射事件の犠牲者であるとわれわれが思い込むことである。しかし息子はサイコパスであった。父ビリーが作曲者の情報を開示できるわけがない。ビリーの行動の謎が氷解するだが、今度は別の不審が出てくる。息子がサイコパスという情報を隠したい欲望が、息子の人格を都合に応じて改変させてしまう。


本作の明瞭な伏線は事件後に張られていて、だからこそ弱くなってしまう。事件直後、ビリーを慰める人々の様子に違和感を持たせることで伏線が設定される。かかる違和感のカウンターとして機能するのが、事件発動直前の息子の日常に言及する冒頭の場面である。そこで描かれる彼はサイコパスとはとても思えない。常套としては、サイコパスか否か判断を留保させるような荒い解像度で息子の生活は切り取られるべきだろう。しかし本作では積極的に隠ぺいしようとして、普通人としての息子を殊更に強調する。即物的な驚きの追及が優先されて、キャラクターの造形の一貫性が犠牲にされるのである。


中盤の伏線回収以降、かかる新たな疑問は受け手の没入を妨げることになる。メンバーに情報を開示しない不審が、今度はリスク管理に無頓着なビリーの無能に対する苛立ちへと変わり、受け手に別のストレスがもたらされる。バンドの興行は拡大する。手遅れになる前に息子の情報をメンバーに開示せねばならないのは自明に見える。ところがビリーは何の手も打たないから、最悪の形で露見してバンドが崩壊しても同情を誘われない。


息子の造形展開を超える享楽を提供できなかった物語は、ここでようやく新たな動機をビリーに与え得たともいえる。創作物は創作者の人格から独立できるか。それが物語の最終的な課題となり、とうぜん独立すべきと主張される。


わたしはこの主張に反対である。色眼鏡を超えられるというのは人間の傲慢であると考える。たとえ人格と作品を分離できても、良き創作物が創作者の人格を高からしめる経路が途絶してしまう。だが、本作の見解を受け入れたとしても、作中でそれを裏切るような現象が起こる。ライブバーに赴き、息子の曲だと明かした上で弾き語りを始めるビリーの場面で物語は終わっている。真実を知った聴衆は一様に謹聴の面持ちである。ステージの男は無差別殺人犯の父親で、歌われているのはその息子が書いた曲かという嗟歎が自ずと醸されている。創作者の人格が利用されているのである。