自意識と英雄譚 『アイアムアヒーロー』


マンガが最高という咆哮からわかるように、常に業界人の自意識が滞留している。課題は雄らしさという性愛にまつわるものだが、片瀬那奈とすでに家庭が営まれている設定がその課題を弱くしている。猟銃というのも造形に合わないから唐突の感があり、自意識が物語に滞留するがゆえに、この恣意性を語り手は承知しているようにも見える。不自然と分かっているから手順を踏む。手順を踏むから話が進まない。冒頭はほぼ12分間停滞している。


語り手の自意識はまたゾンビに語り手自身の思想を語らせてしまう。自意識があるゆえに自分で語るのが恥かしいのである。しかしゾンビに自意識が仮託されると恐怖が減じる。意識が人柄を示唆し、人柄が彼らをゾンビに見えなくしてしまう。他方で、生身の有村架純の人柄が紋切り型を出てこない。音楽というガジェットを使って言葉で人柄が説明されてしまう。人柄は事件への対応を通じて表現すべきものだろう。しかし進展がなく事件がないため反応を描画しようがない。ただ、自意識があることが感情移入への阻害となっているのだから、有村架純が後に自意識を失う展開は正しい。架純とのバディムービーを合理化するためには、彼女を人外化する必要がある。これもまた作者の自意識の照れではある。それが結果として少女の人柄を描画できないことを逆に活かしたように見える。


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ゾンビに残存してしまった意識は殺そうとする決断を軽いものにしていると言わざるを得ない。自意識の残存は人に死の自覚をもたらすのだが、かかる覚悟は観察者に抱かせる不憫を減じてしまう。猟銃の使用に至る細かい段取りは作者の自意識の産物だったのだが、殺害が軽いものに見えてしまうから、使用に至る決意の重々しい過程がわからなくなる。


恣意性を隠そうとする手続きにも蔑にされている部分がある。たとえば易々と駐車場にたどり着ける長澤が男たちのそれまでの労苦の意味を失わせる。架純の我に返り方も都合がよく、このあたりの恣意性の暴露には躊躇がない。架純の意識が半ば温存されている設定にかんしては原作準拠が優先されていると考えるべきなのだろう。作品内では伏線の回収は行われていない。