性愛を超えた連帯 『イット・フォローズ』


美女が感染して物語の課題の担い手となっても共感を呼び難いのである。美女の視点から物語を切り取られても状況を理解しようがない。われわれ物語の受け手が美女ではないからである。事件が惹起すべき、その人の性質に因るような課題が美女には生得的に欠けている。あったとしても観察者にとっては納得あるものに見えないだろう。


課題にせよ恐怖にせよ、これらをあえて先鋭化させない欲望があるように見える。恐怖映画のテンプレである美女と童貞とイケメンの並置はとりあえず行われている。けれども当事者が美女であるために、童貞の心理を焦点化する時間は短く、またイケメンへの憎悪を殊更に駆り立てる趣向にも乏しい。ジャンルムービー風ではないのだ。


序盤では恐怖に社会性がない。個人の失調で生じた恐怖である可能性が否めない点がやはり恐怖を先鋭化させない。物証が信じられないから捜査や救護という活動が物語の観察者に喚起を与え難い。視界が広がる構図に成りがちなのもジャンル的な恐怖を相殺してしまう。恐怖の対象が見えないと恐怖にならないから視界が開けるのだが、しかしそれは遠くに予期ができるものだから先鋭的な恐怖とはまた別の何かになってしまう。恐怖映画に特化するのか思春期の心理に内向するのか、文体が曖昧なのである。


中盤になると、現象が他人と共有できるような形でようやく物証化する。話はゾンビ映画一般と変わらなくなり、物語を稼働させるようなオペレーションが可能になる。ところがやはりここでも、物語の稼働を中性化する働きが見受けられる。それができる段階になると現象に対処するオペレーションは停滞して物語は内向する。しかし人間関係を焦点化しようにも、追われている当事者は美女とイケメンであって、映画の観察者の分身たる童貞にとっては事件は他人事であり続ける。童貞大戦を勃発させようとしない。それならばオペレーションに純化すべき。だがそれもやらない。これは何が狙いなのか。



童貞は終盤で目的を果たす。美女とセックスをして現象を引き受け当事者となる。わたしたちは手を携えて最期のときを待つこのふたりに物語の意図を見出す。童貞大戦を超えること。もうそんなものは沢山だということ。


共有し難く個人的な経験に終始しがちな恐怖がそこで活かされている。災禍の共有が内面の共有となってふたりを結びつけている。取り残されてしまったという孤独と共犯感覚が性愛を超えた連帯でふたりをつなぎとめ、男女の友情という稀に見る現象が展示される。そして稀に見るがゆえに、この現象はほんの一瞬われわれの目に触れると、すみやかに瓦解してしまう。