男たちのタイタニック 『海にかかる霧』


オッサンの博覧会であって生態観察である。物語が準拠するのはオッサンには内面がないと想定する行動主義である。キャラクターに内省の営みがないことは、物語の行方に矛盾した展望をもたらす。性衝動以外に動因のないオッサンを統制するものはなく、行動はカオスになりがちで話の先は見通せない。ところが、ボケッとしている割にはオッサンは話が早い。決断が異常に早い。これは判断が早いのではなく判断がないのである。内省が介在しない反射だから早いのである。


船長キム・ユンソクの逡巡のなさが美しい。計画が進捗するという美が抽出され、それが一種の徳を放っている。船長の非道な命令に諾々と従い、人を海に放れといわれたら迷いもなく放る甲板長らにも、人が行為することの美しさが横溢している。


船長を決断力を試すように災難は加速する。それに応じて船長の決断力は鬼畜化する。次はどんな非道な反応を示すかワクワクが止まらない。決断のたびに船長は怪物化して受け手にとっては理解不能になってゆくのだが、異常心理よりも生物としての佇まいが優先されて観察されるので、鬼畜なればなるほど生物としての造形の好ましさが高まり、物語はこのわけのわからない生物をわからないまま焦点化できてしまう。怪物化した船長の心理から遠心しようとする力を好意が押しとどめるのであり、その均衡の凪に不可思議な文芸空間が立ち現われる。それがあの機関室なのだ。


誰一人として状況を理解するための語彙力を持たないために、機関室に話が閉塞すると、カップめんと性欲をめぐる禅問答の舞台劇が勃発する。劇中で甲板長が幾度か言及するように、それは女の魔性によって滅ぼされんとするオッサンらの物語だ。しかし船長の鬼畜な決断芸を目の当たりにして興奮のあまり乳繰り合う不可解な文芸脚本を前にしては、これを魔性に収斂させてよいものかどうか躊躇われる。あまりにも野蛮なので、魔性があろうとなかろうと結果は同じではないか。そう思い至ると本作の思考実験性が見えてくる。すなわち、もし内省のない集団が反応の赴くままに決断したらどうなるか。かかる大山鳴動の実験の末に帰結されるのが、餅ラーメンという栄養学的過剰なのである。