みんな堕落した 『監視者たち』


香港版にせよこちらのリメイクにせよ、いずれもアイドル映画に他ならない。しかし、あるいはだからこそ、香港版ではケイト・ツイがアイドルだと劇中ではとられないように配慮されている。対して韓国版はアイドル映画であることにずっと開放的な態度をとる。ハン・ヒョジュがアイドルであること、つまり美貌であることが劇中で幾度も言及される。彼女を迎えることになる監視班はカワイイ新人の加入に浮かれ騒ぎ、これもまた劇中で言及されるようにサークルとなる。これが気まずいのである。監視班長ソル・ギョングはこの子豚が雌であることを事あるごとに意識する。トイレ実況場面では童貞の挙動を引き起こす始末である。


映画はソウルの地下鉄車内の場面から始まる。わたしはその車内にたたずむ初出のハン・ヒョジュをみてギョッとした。かわいすぎる。アイドル映画を明朗に志向しているから、アイドルに見えるように照明を当てていて、アイドルの顔になってしまっている。香港版が、どこからどう見てもアイドルの顔をしたケイト・ツイをあくまでアイドルと扱わなかった理由がここでわかる。こんなどこから見てもアイドルに尾行されたら一発でバレる。そもそもアイドルには向かない職業なのである。アイドルに見えるのは映画の観測者であるわれわれに限定されるべきで、劇中人物がケイト・ツイをアイドルと認知することはあくまで禁忌とされるのである。もっとも韓国版のヒョジュも動いてしまうと作画が崩れて、アイドルらしい顔貌が中和される。ケイト・ツイはアイドル顔のままで、全編ニヤニヤが我が顔に張り付いたままであった。ワシはケイト・ツイのほうがええかな。


韓国版の冒頭に違和感を覚えてしまうところは他にもある。香港とソウルの街頭の集積度の違いである。街の作りが違うために、香港版と比べると雑沓が開放的である。地下鉄も混雑度が薄い。香港版には、集積度の高い空間に放り込んで絶えず人が接触できそうな間合いにアイドルを置き、しみじみと湧き出ような暖かい昂奮が感ぜられた。同時に街頭の集積度は、オーバーテクノロジー気味ゆえに何をしているのかよくわからない監視班という組織にある程度の現実感や必然性を与え得たとも思う。これがソウルの開放的な空間に特に修正もなく適用されてしまうと、何でこの地勢でこんな細々としたことをやっていのかという不可解が出てきてしまう。アイドル映画の方へ舵を振り切った韓国版の問題点が、ここでもやはり強調されてしまう。アイドルであることが明確化されると、アイドルの造形に宿命的に付きまとう属性も強調されてしまう。無能という属性である。


香港版はレオン・カーフェイの話である。サイモン・ヤムもケイト・ツイも添え物である。カーフェイの追跡は自助努力ではなく偶然に依存しがちである。韓国版がアイドル性を増幅させたように、カーフェイに相当するチョン・ウソンもその造形はずっと誇張されている。カーフェイは大柄ではないから街頭では目立たない。チョン・ウソンはでかすぎて、やはりこの職業には向かない。引退したがっている彼はむりやり仕事を強いられている。ところが、組織を裏切る段になってはマンガのような戦闘力を発揮して組織を絶滅させる。こんな戦闘力ならば、そもそも仕事を強制されるのがおかしい。しかしカーフェイの凶悪化は韓国版の美徳でもある。香港版はラム・シューのコミックリリーフもあって、カーフェイ一派にはサークル的堕落が否めない。韓国版はこれがなく機能的な集団になっている。ところがチョン・ウソンのこの戦闘力がブレてしまうのだ。あんな無茶苦茶な戦闘力なのに、ヒョジュには易々と手負いにされ、班長に退治されてしまう。助平なのかといえばそれまでなのだが、アイドル映画であることが強調されたため、アイドルの無能に感応してしまったのである。


子豚は成長して小鹿になった、というよりはみんながアイドルに鼻の下を伸ばして堕落したのである。最後の真のアイドル降臨には、わたしも黄色い絶叫を上げておおよろこびで堕落した。