幻想のナルシシズム 『捨てがたき人々』


南洋幻想である。弁当屋の店員から商店街のモブに至るまで、容姿に水商売的不自然さがある。ただ理念優先の話らしく、南洋の割には美術が乾いていて生活感がない。いくら時間が経っても南朋の住まいが汚部屋にならず、歳月の経過がわからない。


中盤の田口トモロヲの登場は浄化である。作り物が作り物じゃないように振る舞っている中にあって彼の演技は記号であることを隠さない。ようやく違和感のないキャラクターが出てきた安心がある。しかし、すぐに俗化してしまって発展がない。


南朋にしても、美保純にまで手を出し始めたちどころに彼女を落としまう展開になると、これはオッサンの皮を被っていて原型はとどめないものの、中身は確かに南朋だから絶倫でモテるのか、というよろこびにあふれてくる。役者本来の属性が活性化してキャラクターに現実感を付与するのである。が、これも発展性がない。


三輪ひとみも魔性化して始まったなと思わせておきながら、やはりそう思わせたのがピークアウトで、すぐに矮小化してしまう。


キャラクターの発展を閉ざすのは、キャラクターが実際に送っている生活と彼の苦悩の分離である。南朋の生活からどのような理路をたどれば彼の吐露につながるのかまるで見えてこない。南朋は三輪に排他的な愛を要求する。しかしこの南洋幻想の、性に開放的な社会で南朋のような倫理観が発達するとは思えない。彼はまた、自分の負の属性が自分の息子に踏襲されてしまう因果について大仰な嘆きを訴える。しかしわたしには単なる子どもの中間反抗期に映る。属性の踏襲が行われているようには見えない。


孕ませた三輪に南朋は中絶を迫る。自分は負の属性が強いから、それを踏襲する子は不憫であると南朋は考えている。これは苦悩ではない。自分の属性の特別視であり、南朋のナルシシズムの発現である。


わたしはハゲタカのラストを想起した。踵を返して群馬の田舎道を颯爽と後にするナルシシズム満点の南朋を思い出し顔がほころんだのである。