認知障害ノスタルジー 『KANO 1931海の向こうの甲子園』


怪作である。何もないのである。廃部や廃校の危機ではない。夢破れたオッサンが才能ある若者を見出すのでもない。凡人で終わりたくない若者の焦燥でもない。貧困からの脱出ではない。荒廃した地域に希望を与えるでもない。虐げられた民族の恨み節でもない。若者たちは現状に満足している。地域は五族協和の楽土のようなものになっている。冒頭で描かれるのはいかに満足してるかであり、不満ではないのである。状況を物語として構成する意味があるとは思えない。


物語を物語として認知するには一定の手続きや形式が必要である。課題を与えそれを解決させるサイクルにキャラクターを放り込まねばならない。このサイクルがなければわれわれは状況を理解できなくなってしまう。


甲子園や野球が劇中で特権化する理由がまずわからない。永瀬正敏の顕示欲に部員たちが巻き込まれたとしか見えない。


物語として認知できないから、人物の行動が大仰に見える。


会話は絶叫であり、永瀬は腕組みしながらズイズイとマウンドにやってくる。ひどく歩きにくそうだ。宴会のあと、泥酔して嵐の湿原をさまよう永瀬に悲壮な劇伴が被る。しかし大仰な劇伴や演技に相応しい状況ではないのである。単に宴席で軽い嫌味を言われただけなのである。


この不条理の最たるものが大沢たかお登場場面だろう。彼は野球とは何の絡みもない。唐突に前後の文脈をぶった切ってトラックや船にまたがって登場する。レアキャラを見出したかのように部員たちがそこに歓喜して駆け寄る。あまりにも本筋と関係がなさすぎるから、たかお自身事態がよくわからず困惑しているように見えてしまう。


認知ができない以上、展開される状況をどう取っていいかわからない。したがって、キャラクターの行動を劇中で観測するモブの反応を通して、それを知るしかない。状況定義のために物語はモブの反応を詳細にかつこれもまた大仰に言及する。モブの挙動を通して間接的にしか状況を評価できないから話が進まない。多くの映画では、15分も寝落ちすれば筋が解らなくなるだろう。しかし本作では、寝落ちしてもまったく理解が途絶することがない稀有な経験をした。何かを編成して積み重ねる物語の活動がそもそも行われておらず、時間の観念に乏しいのである。