大杉漣、魂の座 『CURE』

大杉漣がいちばんえらい。久しぶりに『CURE』を再見してそう確信した。



大杉漣登場の会議室の場面は衝撃である。ヘアスタイルとメガネだけで話は喜劇に堕ちかかる。その通俗の塊のようない出立ちで萩原聖人に立ち向かってゆくのだから、してやられるのは確実で、予見通りにしてやられてしまった大杉は早々にキレてしまう。萩原はあきれながら役所に愚痴る。



ところがここで違和感が発起する。今まで役所の視点で観測されてきた物語が初めて完全に萩原の視点になっている。われわれは役所の視点から締め出されてしまうのだ。


以降の場面になると、役所は物語の視点を取り戻したように見える。しかし彼の演技が変わってしまっている。棒読みになっている。


この演技は翌年の『蛇の道』『蜘蛛の瞳』で哀川翔によって踏襲されたものだ。両作品の哀川はサイコパス役で、サイコにもかかわらず主人公であり物語の視点を担う。受け手には理解不能なものに視点を依拠する離人的な感覚が棒読みの演技によって担われている。


役所の棒読みも同じ役割をする。大杉漣の場面で萩原の視点になったとき、彼は役所を同志扱いする。役所すでにサイコパスになっている。にもかかわらず、もはや理解不能となった役所の視点で物語を描画せねばならないから、台詞に感情がなくなってしまう。役所と萩原の関係が逆転した、その分水嶺にいたのが大杉であり、彼こそが世界の救済ないし破壊のきっかけを作ったのである。


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物語という倫理的な形式はサイコパスの退治を要請する。しかし退治は往々にしてサイコパスの卑俗化を伴ってしまう。卑俗化するのであればそれはもやはサイコパスではなく、キャラの特性が一貫しなくなる。


この矛盾の解決案として、精神病質とその担い手を分離するアイデアがある。精神病質の担体は死滅しても病質そのものは他の個体に継承されるのである。


セブンのケヴィン・スペイシーはブラピの手にかかることで、ブラピに精神病質を感染させる。萩原と役所は師弟関係となり、謎の暗殺術が役所に継承される。わたしたちは伝えたいという萩原の動機を知ることで、あろうことか彼を理解してしまう。



ラストのファミレスがすきだ。ブラピは精神病質の汚染を知って悶絶するのだが、役所は逆に爽快になってしまう。これがすきだ。本来の自分の属性をようやく発見したのである。


そこにはまず卑近のうれしさがある。これまで苦しんできた彼が救済されている。それを観察できるのがうれしい。


また、無敵の暗殺術を手に入れたような中学二年生病の万能感が、モリモリとファミレス食を咀嚼する役所からあふれ出ている。撮影も陰影ある顔貌を作ってノリノリである。それは異世界転生もののよころびであり、『マトリックス』ラストのキアヌであり、ひいては生命賛歌である。