景物の誘い 『人生スイッチ』『蜘蛛の瞳』


自らの過ちが原因とはいえ、反社会的人格の搭乗する車を煽ってしまった男は『激突!』の状況に追い込まれてしまてしまう。


ここで状況を観測しているのは、もちろん追われる男の方である。彼を襲撃する反社会的人格の視点には言及がない。内面が明かにされるキャラクターとそうでないキャラが対比された場合、パワーバランスは前者に傾くからであり、かつ反社人格はそもそもが理解不能だからでもある。しかし追い込まれた男が反撃を試みると、襲撃する男の視点で初めて状況が観測され始める。襲われていた男が行動に移ると、今度は彼が自分の内なる反社的人格と出会い、物語の視点を弾き飛ばしてしまうのである。


両者の攻撃性の発揮とその強度に応じて、視点はふたりの男を交互に行き交い、やがて視点は特定の人物のものではなくなる。野蛮の応酬を繰り広げる男どもを遠くから眺める第三者のそれにとって代わる。蛮人らはその内面に受け手の理解を届かせないゆえに景物となってしまう。代わりに本来は景物であったはずのBMWが、そこに備わる様々なガジェットが暴力の応酬に活用されるうちに一種の人格を帯びてくる。


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このBMWは『蜘蛛の瞳』でいえばラストの木偶になるだろう。


蜘蛛の瞳』の哀川翔サイコパスである。にもかかわらず、哀川の視点で事態は観測され、絶えず不可解なイベントに出来する。その極限にあるのが殺害したはずの寺島進の復活なのだが、哀川はサイコだからどんな不条理でも順応して、精神病質の視点を構成する。


ただ作中では、哀川を客観化しようとする第三者の視点がある。彼が寺島を埋めるとき、その情景を謎の景物が観測している。白布に覆われた人型の物体である。ラストで哀川が白布をはぎとって現われるのが、木偶という景物の最たるものなのだ。木偶を認めた哀川は自分を客観化しようとするその力にウンザリしてしまう。


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蜘蛛の瞳』の哀川の棒読みは『CURE』の役所広司を踏襲したもので、反社人格が物語の視点を担うために、当該のキャラクターが感情を失ってしまう*1


『人生スイッチ』には『CURE』の役所と連接してしまう話も出てくる。


サイコに変貌したビル爆破職人は、事を起こす前にカフェでモリモリとクロワッサンを咀嚼している。受け手はその泰然とした様子に彼が反社人格となったことを察知できる。これは『CURE』のラストでモリモリとファミレス食を咀嚼する役所広司そのものである。


爆破職人も役所広司もあるいは襲撃されたBMW男も、奥底に眠る野蛮を召還したとき、宮崎駿アニメの主人公のように凛然たる佇まいでわれわれを魅了する。フィクションにおいて、野蛮な反社会的人格はしばしば有能さと連接する。われわれはその有能さという現象を目の当たりにして歓喜する。『人生スイッチ』は有能という徳を導出するために精神病質を描画する。南米の失敗国家への絶望が仕事ができるという徳に固執するのである。