三島由紀夫『雨の中の噴水』 石原慎太郎『完全なる遊戯』

戦後短篇小説再発見1 青春の光と影 (講談社文芸文庫)
 恋愛の局面にあっては男は選択の主体になり難い。選ぶのは女だからだ。では男が選択の主体となるにはどうすればよいか。三島の『雨の中の噴水』は恋愛の終局に着目する。選べなくとも棄てる決断はできるはずだ。この発想がさらに倒錯すると、恋愛が目的ではなく選択の主体となるための手段となってしまう。女を棄てるという決断を下すために恋愛を行う自然への挑戦が始まるのである。
 ここから『雨の中の噴水』は石原の『完全なる遊戯』と似てくる。棄てることが受け手にとって好ましい状況の成立を図るべく、両作とも女の未練の執拗さを叙述するとともに、いかに女を棄却するかという技術論を展開する。
 『完全なる遊戯』では、精神疾患の女性を強姦する段階にあっては、強姦者の男らの方へ憎悪が誘導される。ところが女には行き場がなく、厄介なものを拾ったという状況になる。女への煩わしさが生起することで、いかにこれを棄却するかという技術論への傾斜を可能になる。しかもそれは段階を踏むことで憎悪を増幅して解決への邪な切望を煽る。
 最初はソープに沈めることで解決が期される。次に店の方で扱いに困り返却というタメがやってきて最終解決に至る。若者の素行を話題とした紋きり的な世代論といえばそれまでだが、ただ彼らがあまりに果断で手際が良すぎるために技術論のよろこびが露出してしまうのである。
 『雨の中の噴水』の方でも、男が別れようと宣言しても立ち去ろうとする彼から女は離れようとしない。ここで女性へ憎悪が誘導される。ところが、この話で最後に知らされるのは、男は決断したつもりでいたが、実のところ選択の実効が成り立っていなかったことである。正確に言えば、女の機知が男の選択を遡及的に無効にしてしまう。
 女性への従属へ収斂してしまうのだから男である受け手には悔しいはずだ。しかしそうはなっていない。リベラル心(?)が心地よく刺激される点は否定できないものの、何よりも憎悪の的となっていたキャラクターに人格や機知を見出せたことがうれしいのである。