失われた記憶と分岐する人格

 記憶を喪失した人物が災厄に見舞われている。その災厄は、記憶を失う以前の当人が引き起こしたものである。しかし記憶を失った彼はそれと知らずして災厄と戦っている(『ヘラクレスの栄光III』『CASSHERN』)。
 記憶の継続を人格の要件と見なす立場を採用すれば、このケースの業の深さは軽減する。記憶が途絶しているのであれば、過去の悪さを引き起こした自分は別の人間であって、今の自分は責任の主体とは言えない。では記憶を回復して自分の罪業を思い出したのなら、責任の主体を取り戻せるのか。それはそうであろうが、曖昧なところも残る。記憶が回復された人格にあっては記憶を失う前の本来の人格に記憶を失った以後のそれが合流しているので、喪失以前と回復以降の人格が一致するとは言い難いのである。



 記憶の喪失がその断絶を境として同じ人物をふたつの人格に分岐させることで、アリストクラシーな倫理観の契機となることがある。『ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者』の結末をそのように解釈することもできるだろう。
 今、自分が享受する境遇は過去の自分の尽力に依るものである。ところが、記憶喪失が今の自分と過去に尽力した自分を別の人格にしてしまっている。自分が行った事でありながら自分の責任だとは思えない。むしろ昔人の恩顧を以て自分があるように感ぜられてしまうのである。