『クリーピー 偽りの隣人』


 精神病質者の視点がたびたび挿入される。理解不能な人物の主観が入るわけだから、男の病質性はおのずと低減される。地下鉄の場面で明示されるように、男の挙動が精神病質であるとはっきりと定義したくない意図がある。彼がそれであるのかどうか、その可否の追求が緊張を伴う課題となるからだ。しかしこの構成には問題がある。中盤で男が精神病質者であると明確になるが、それでもなお、あるいはだからこそ、われわれは前半の男の姿を引きずらずにはいられない。
 同じ問題は『君のいた証』でも見られた。この話も劇中の人物の精神病質性の可否を問うことで受け手に緊張を強いるよう構成されていて、序盤ではその人物の精神病質性を隠さねばならなかった。したがって、前半と後半で彼の造形が分裂してしまう恐れが出てしまったのである。
 『クリーピー』には、まことに黒沢清らしいことに、病質者への同情が認められる。前半の視点開示も同情と共感の結果だと解せる。精神病質者へのかかる興味は、病質の確定を境にして分裂しかねない彼の造形を統合しようとする働きとなって現れる。病質が確定されても男の主観は開示され続ける。理解できない精神病質を叙述するという営みがそこで発生してしまう。
 黒沢の90年代のフィルモグラフィーの中で、たとえば『復讐四部作』や『CURE』でこの営み自体は散々試みられたことであるが、アプローチが異なっている。精神遅行や障碍者の累犯の様態に近いものとして本作では病態が描画されている。障碍者と少女の組み合わせは、ジャンルとしては『レオン』や『アイ・アム・サム』に似たものがあり、やはり病質への憐憫を伴う同情がある。
 人間を手段としか認知できない精神病質の、カント的な倫理観への反立も、目的の欠如として意図的に誤解釈される。目的がないゆえに、行動が地勢に従属してしまい、それが憐憫をもたらす。一方で、特定の地勢が人を動かしてしまう不思議が話をただの同情で終わらせない。病質を理解することが自然に人間的な性質を見出すアニミズムとして解される。そして自然物とされた病質が同じく自然物である動物と遭遇すると、話は唐突な幕切れを迎えるのである。