主人公がコミッサールに設定されていて、ブン屋のような職能を負っている。当事者であってはならないとされ、状況を批評するばかりなので、イベントの担い手にならない。これは話として難易度の高い作りである。
主人公男はサイコパスである。この手の精神病質が状況解析に秀でているという世界観なのだが、この属性は主人公に関しては活かされていない。男はパートナーのいら立ちを神経生理学と進化心理学に基づいていちいち解説して人間関係を破綻させる。ところが、仕事の修羅場に際しては、シニカルな態度がまるで維持できない。動揺するばかりである。性格が一貫せず、コミッサールの機能も果たせない。
特異な属性が修羅場で対応できないケースは他にもみられる。四重人格者もテンパって役に立たない。同一性障害者を配置した意味がこれでは解らない。主人公男と多重人格がいなくとも成立する話なのだ。
主人公男が司令官の吸血鬼と属性が被るのも、プロットの経済の観点からすれば男を余分な存在にしてしまう。男と同様に吸血鬼もサイコパスである。
劇作におけるサイコパス叙述の課題、つまりどれだけその性格を崩さないでいられるかという興味は主人公男ではなく吸血鬼にこそ負わされている。彼がどこまで修羅場に冷静でいられるのか。これが話の行く末に対する興味を喚起してくれる。また、主人公男と吸血鬼との絡みには『あの頃ペニー・レインと』のような参与観察のはにかみが感ぜられる。その意味でもブン屋ものに近いのである。
作劇の経済を冒してまでも主人公男と吸血鬼の属性を被らせた意義は、結末に至って判明することになる。吸血鬼も役には立たず人類破局の寸前で話は終わるが、ただ一人、宇宙で最後の自意識保持者となろうとする主人公男が吸血鬼の境遇と重なることで、その種族の孤独を追体験するのである。サイコパスであることの孤独がそこに生じている。