仮文芸

現代邦画とSFの感想

『ボーダーライン』


 ゴルゴ13に少年が出会うひとつの類型がある。少年が偶然にゴルゴの仕事を目撃してしまう。第482話の「ストレンジャー」は前に言及した。好きな話だ。ゴルゴの仕事ぶりに感化された文弱少年が生きる勇気を取り戻すのである。対して、本作のエミリー・ブラントはネガティヴである。ゴルゴ=デル・トロの超人的な仕事ぶりを目撃した彼女は落ち込むのである。
 この話は不思議な構成をしている。最初はゴルゴを観測しているとは思わせない。あくまでエミリーの冒険活劇か何かのように叙述される。しかし、中盤で不審な場面が訪れる。ストレスをためたエミリーが場末の酒場に繰り出し、行きずりの男と乳繰り合いを始める。これまで展開されてきた性格造形からは演繹できない行動に走るものだから、突如ジャンルが変わってしまったような戸惑いが生じる。しかも場面の最後には絞殺されそうになり、主人公途中降板型の構成なのかと一瞬、思わされてしまう。
 実際はデル・トロに助けられるのだが、しかし主人公交代の予感は正しいのである。以降、語りの資源がデル・トロの観測に配分され始める。最後にはデル・トロ自身が話の視点を担ってしまうのである。主人公交代の前哨があの中盤で行われているのだ。


 物語中盤の乳繰り合いで行われたこと。それはエミリーの雌化でもある。デル・トロのゴルゴ化に応じてエミリーのストレスは亢進するのだが、この雌化ゆえに、彼女のストレスが分からなくなる。仕事に関する自尊心が損なわれても、雄ほどには応えないだろうという予断が生じてしまう。
 仕事に挫折した男の心情は理解しやすい。自己実現をめぐるオスの強迫観念は理解できる。甲斐性を誇示することで、雌をめぐる他の雄との競合に勝たねばならない。対して、仕事に挫折した雌のストレスはどうなのか。それはいかなる様態を以て雌を責め苛むものなのか。
 自分の懸想する雌が生殖の対象とはならないと知ったとき、その個体に対する男の態度が一転して冷淡になることがある。自らの雌性を利用できなった彼女は、そこで初めて対等の人間として扱われる。トンネルを抜けたとき、自分の雌性を利用できないとエミリーは決定的に知らされるのだ。デル・トロには撃たれた。デル・トロには雌性が通用しない。それを知ったエミリーはヒステリーを起こす。
 警察関係者の彼女は、法令が順守されない職場に放り込まれ、現場のギャップに苦悶してきた。法令を順守せよとデル・トロらを非難する。しかし、これはこちらの人権意識に問題があるのかもしれないが、こんな修羅場で何を言っているのか、という否定的な印象を彼女に付加してしまう。人権侵害はストレスの表層でしかないのである。法令順守の深層にあるのは雌として扱えという叫びなのだ。

 エミリーの冒険談は霧散する。デル・トロの生き様の物語に過ぎなくなる。甲子園を目指す男どもを観測するしかない『タッチ』の長澤まさみのように、ラストのエミリーはデル・トロを成す術もなく見送るのである。雌性に甲子園行きを阻害されるままに。



 エミリー・ブラントという配役は、『誰よりも狙われた男』のシーモアを彷彿とさせる*1。永遠にアン・ハサウェイになれない際物役者という自意識が、役柄に信憑性をもたらしている。ただ、同じように敗北してもシーモアは雄なのである。甲子園に向かうデル・トロをベランダからエミリーは茫然と見送る。敗北したシーモアは違う。デル・トロと同様、絶望にもかかわらずどこかへ向かわざるを得ないのである。そこでは受け手であるわれわれが、立ち去るシーモアの背中を観測するのだ。