ジーン・ウルフ 『アメリカの七夜』

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)
 タイトルは失念してしまったが、サブ・サハランかどこかの長老が19世紀の欧州辺りを訪ねて文明の利器にケチをつけて回るあの探訪記は、小学生のわたしをいたく憤激させた。今読んでもおそらく憤激すると思う。長老の偏狭さに憤ったのである。
 内容は長老が自部族向けに報告するスタイルで陳述されていたと記憶している。語り手である長老の意図にしたがえば、これは彼が自分の所属する文明を称揚するオナニーと見なせる。しかし、批判対象となる近代圏の読書向けに本書が出版されたとなると、事情が込み入ってくる。表向きは、近代民の自省を促す呼び水として長老の批評が利用されている。だが、近代民にとってもこれは文明オナニーのオカズとして消費され得るものだ。批判しかできない長老に比して、批判対象である自分たちにはそれを取り上げ自省する寛容がある。近代民は自らの啓蒙精神をかかる対比に見出して称揚を覚えるのである。


 『アメリカの七夜』は異邦人に自文明を探訪させ、間接的な自文明の称揚の媒介にしている。ただサブ・サハランの長老の話より事情はさらに輻輳している。イスラム系の異邦人が未来の北米を訪ねる話だが、文明度が逆転していて、異邦人が荒廃した北米の野蛮を批評する形になっている。
 では、なぜこれが北米人のオナニーに見えてしまうのか。異邦人と現地北米人との力関係が逆転する件があるのだ。ひとつには、北米の事情を解説する師匠キャラの登場がある。そして男女関係が始まることにより、異邦人であるオスが現地民のメスに対して劣位におかれる。しかし、オナニーが始まったかと思うと、事態の更なる捻じれが浮上する。異邦人を貶めることで文明オナニーにアプローチすればするほど、オナニーにならなくなる。オナニーの対象となる文明はすでに失われているからだ。知覚されるのはむしろ故郷の喪失感である。
 自省は自省できるという自意識が生じた時点で自省でなくなる。自省でいながらにして何か別の美意識に抱合される手続きが欠かせない。異邦人を組み込むことによって、本書は異邦人のホームシックと文明が失われた喪失感と混線させるのである。喪失感にウットリと浸るという点で、これもこれで自慰に違いないのだが。