『だれかの木琴』


 ホラー映画にしては珍しく、ストーカーの常盤貴子の内面が開示されている。ところが彼女の内語は、修羅場と化する状況とは全く関連のない話題に終始している。内面開示が恐怖を煽る装置になっていて、そこにわれわれは美人の天然というべき恐怖を見出す。かつて自分の微笑が世界を支配した。この記憶が、好意の表明と愛の追求に躊躇を覚えない美人の天然を惹起している。物語が叙述するのはそれに対応する社会の動きである。常盤の無言電話が池松壮亮の美容室にかかってくる。放火魔が3mmカット要求をしてくる。常盤が断髪を求める。これらのイレギュラーな事態に美容室という組織がどう対応したのか精密に描画されることで、常盤のストーカー行為が良くも悪くもテクニカルな課題へと矮小化される。物語の観察者にとってみれば、事態は、常盤をストーカーではなくあくまで顧客として扱うとした店長の初動判断の誤りに過ぎなくなる。ストーカーであることは自明なのに、店長に引きずられるように常盤をストーカーだと定義できず、佐津川愛美に迷惑を及ぼす池松が苛立ちとなる。むしろ常盤をストーカーだと明瞭に認知している佐津川の方に同情が及び、事が池松の男の甲斐性の問題へと還元しかねない。
 社会経済に着目し、解決の可能なテクニカルな課題に過ぎなくなると、事件が文芸的な補足に適さなくなる。他方で、社会を叙述するというフィルタリングはやがて、常盤から美人の天然という属性を分離し抽出する役割を果たし始める。
 池松のストーキングを終えた常盤が新たなる標的を見出し、美人の天然が地上を蹂躙していくような恐怖映画の終幕らしいスケール感を醸しながら物語は終わる。常盤の習性は属人性を失い、常盤の方がむしろ美人の天然に隷属しているような解釈が可能となってくる。
 ラストカットでわれわれを待ち受けるのは、トドのようにカウチに横たわる常盤である。属人性を失った習性を常盤という具体的な身体で表象しようとするその気が狂いそうなショットは、しかし、水族館でイルカを愛で眺めるような心地をわれわれにもたらしてくれる。