『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』


 冒頭で信州を旅する寅次郎からとらやに絵葉書が届く。「いいなあ君の兄さんは」とさくらに博が所感を述べる。手前の兄貴でもあるわけだから、この言い方には博らしくない距離感がある。中盤でも、いしだあゆみが上京して寅に付文を渡す場面で、博はメタな視点を持ち出してくる。「こういうケースは初めてだな。どう考えりゃいいのかな」と感想を漏らす。冒頭の台詞の距離感は、寅を客体化しようとする博と息子の満の働きを示唆しているのだ。
 博の述べる通り、『寅次郎あじさいの恋』はイレギュラーな話である。序盤の京都では、マドンナであるいしだあゆみの視点に躊躇なく尺が割かれる。寅の視点は圏外に置かれがちで、彼のマドンナにたいする好意があまり詳らかにされない。最初に惚れてしまったのはいしだあゆみなのだ。ところが、いしだには津嘉山正種という婚約者がいる。それでいながら寅に気をやるのだから、津嘉山との話が破綻しても同情を寄せ辛い。丹後に隠棲するいしだを寅が尋ねると色仕掛けまで繰り出す。本来であるならば、いしだの誘惑に応じることができず空寝を決め込む寅の成熟のなさに憤りが生じそうなところだが、いしだが淫乱でおそらく酒精依存の気もあるからことから、これは地雷ではないかと思われてしまう。寅の空寝もいしだの迫りくる薄幸の魔性からの緊急避難として納得できてしまう。しかし、上京してきたいしだに鎌倉デートを誘われても全く度胸がなく、満同伴でそれに臨む至っては、寅に苛立ちしかなくなる。さすがのいしだも気がついてしまう。このひとは甲斐性の全くない駄目な人だと。寅が「満を先に返す」と提案して間接的な告白を行っても手遅れである。いしだはすでに冷めている。
 「今日寅さん、なんか違う人みたいやから」
 寅の未成熟を見抜かせることで、受け手にとっていしだがようやく理解の可能な造形物となる。客体視によるキャラ立ては寅にも同じように作用し始めていて、博が物語の構造に言及した客体視が寅自身にも波及し、彼は自分を客体視しようとする。満を帰そうとできたのもその表れだろう。デートの前、恋の病に罹患しとらやの2階で焦燥していた寅は満に嘆じた。
 「おまえもいずれ恋をするんだな、可哀想に」
 焦燥という生理現象に苦痛を覚え、自らを憐憫しているとわれわれはこれを解しがちだ。ところが違ったのだ。寅自身が無意識ながら、本当の病が別のところにあると気づきかけていたのだ。
 鎌倉から単独でとらや戻った満は報告する。
 「おねえさんと別れたあと、おじさん電車の中で涙こぼしてた」
 いしだあゆみという特定の女との恋が破綻したことを嘆くだけではない。男は自らのネオテニーを自覚したのである。成熟したオスであるならば、失恋してもまた別のメスに機会を求めればいいだけである。成熟できないという病に冒された自分にはそれが永遠に出来ないことを寅は知ったのである。この認知は寅をシリーズから逸脱させかねない。したがって、われわれの知らぬところで、寅が自らの客体化を行う様を満は目撃せねばならないのだ。


 エピローグ。彦根城の堀端で寅は片岡仁左衛門と再会する。辺りでは部活動に励む女子高生の嬌声が響いている。冒頭の京都の鴨川で「じいさんも色気の方は卒業したんだろう」と寅は仁左衛門を揶揄ったものだった。その枯れた老人と童貞が性の位階の頂点に君臨する女子高生と対比される。わたしはあまりの酸鼻に震え上がった。