虚構に殉じる

 
 Er ist wieder da は史実に準拠しない形でヒトラーの造形を設定している。ガレアッツォ・チャーノやゲッベルスの日記、あるいはヨアヒム・フェストの評伝で知ることができる史実のヒトラーは多動性障害の典型的な症例を呈していて、その印象は奇人というほかない。
 史実に気をやらなければ、社会時評としての信憑性は損なわれてしまう。にもかかわらず、敢えて史実に準拠しないのはなぜか。劇中で描かれる、マスメディアやYouTubeを通じて男が及ぼす多大な感化に、わたしは映像業界人の邪念を見てしまったのだった。社会時評は装いであって、叙述の力点はあくまで媒体の感化力を描写することにあるのだ。
 虚業であることの後ろめたさはフィクション業界人の宿痾である。したがって業界人が虚業に社会的な感化力を託したがるのは人情であるのだが、業界人が業界を舞台にして自分たちの仕事が虚業ではないと訴えるのは悪手であろう。業界人の後ろめたさが業界外の受け手に共有されるとは限らないからだ。わたし自身、フィクション業界で仕事をしているが、この手の問題意識を欠いていて虚業であることにそこまでの痛痒を覚えない。業界人の自己正当化を呈示されても困惑してしまう。それこそヒトラーゲッベルスが熱心な映画ファンであった史実を参照するだけで十分ではないかと考えてしまうが、そこをあえて、フィクションの感化力を叙述したいとすればいかなる手法があり得るのか。

 『少林サッカー』の課題設定は明快であった。寺で習得した武術が実社会では何の役にも立たない。つまり虚構であるのだがサッカーという別の虚業の役には立ってしまう。屋上屋を重ねる形とはいえ役には立ったのだから、受け手はこれで虚業の正当化は果たされたと思わされる。ところがそれは誤誘導であり、虚業の正当化が実のところまだ完結していないことから受け手は目を逸らされるのである。少林寺という虚業がこの地上を変貌させ少しマシな場所に変えてしまったことをわれわれは最後に目撃するのだ。

 わたしは『ロスト・メモリーズ('02)』がすきだ。日本語圏ではトンデモと悪名高い本作だが、トンデモつまり虚構の最たるものだからこそ、虚構の正当化問題に接続してしまう。あるいは、韓国語圏にとっては虚構でも何でもない、ナショナリティに直結するド本気な話だからこそ、部外者である受け手に虚構がその純度を高めて迫りくるのである。日本が戦勝して併合状態の続く21世紀のソウルでチャン・ドンゴンは地下に潜伏する独立派テロ組織の親玉と遭遇する。この、どこからみても胡散臭い老人はドンゴンにこう語るのだ。
 「われわれの世界はパラレルワールドである」
 常識で考えれば噴飯物でほとんど新手の勧誘である。しかし人々は希望を託したドンゴンを逃すために、つまりこの荒唐無稽の“虚構”のために、ためらいもなく命を投げ出していく。虚構の正当化が信仰の形式を以て試みられている。

 書物が弾圧される舞台であるから、『華氏451』は社会時評であるとともにフィクションの感化力を訴える話でもある。トリュフォー版のラストでは、オスカー・ウェルナーは「本の人々」の森に到達する。人々は物語を後世に伝えるべく本の暗唱を続けている。ここにあって、物語は弾圧という社会時評を超え虚構の正当化に至っている。われわれが目の当たりにするのは他者の言葉で自分を表現する営みの神々しさなのである。