『タクシー運転手 約束は海を越えて』

 悲酸を盛り上げるための準備動作としてソン・ガンホのテンションを不自然にする本作の実利的態度は、タクシーのカーチェイスで極限に達してお笑いに接近する。公安のコワいオッサンの叙述も純ジャンルムービーそのものの通俗さで、作品に対してとるべき態度を受け手に見失わせる。ソン・ガンホの性格は多様化する物語の構成原理に引きずられ分裂して、オートマティズムが濃厚になる。取材に同伴して屋上に登った彼は、眼下の酸鼻に目もくれず握り飯の摂食に勤しむのである。
 ガンホの摂食は、人格喪失の指標として働くことで感傷を導出しながら、同時に、彼を三人称化するからこそ内面がそこに誕生するという操作も行っている。その三人称と一人称の端境期が中盤に訪れる。一端は現場から離脱したガンホが平穏な日常に取り囲まれる。彼の失われた属人性は、悲酸を認知するようなしないような、たゆたうような気分に至り、ククスの摂食を試みるとついに内破する。それは、自意識の希薄な動物や子どもの摂食が理由なく嗚咽を誘うような感傷であって、あくまで内面から受け手を締め出すことで発せられるオートマティズムの哀しみなのだが、しかしいまひとつの効果も認められる。受け手は、ガンホがどれほど堪えていたのかようやく知るに至る。それとともに、われわれは如何にガンホの内面から離されていたか知らされる。造形のオートマティズムがやっていたことは、ガンホの内面を隠すというよりは、ガンホの内面を見ているつもりにわれわれをさせることであり、だからこそ受け手には彼が分裂的に見えてしまったのであった。信頼できない語り手であったと設定することがガンホが堪えていたという開示をより切実するからである。また同時に、ガンホ自身も自らの開示に立ち会うことになる。彼は自分の希少性と出会ってしまうのだ。