『続・男はつらいよ』

 懸想の対象には恋人の影がある。しかし欲望がそれを曲解することで前兆は潜在化する。かくして恋は唐突に失われる。佐藤オリエに懸想した山崎努の動揺に言及があるのは序盤の一場面だけで、あとは後半までこのふたりのラインは潜在化する。その悲恋は寅を唐突に襲わねばならないからだ。
 マドンナと男の関係の露見は二段階のプロセスを経る。寅と受け手が同時に知るのではなく、まず受け手にだけ明かされる。マドンナの演奏会に訪れる山崎を以て、われわれは例のごとく悲酸が始まったと歎じるのであるが、寅はまだ破局を知らない。この効果は残虐である。マドンナの親切を誤解した寅が彼女の好意を確信して身悶えするたびに、すでに事情を知る受け手は凍りつく。演奏会と啖呵売のクロスカッティングはもはやゴッドファーザーの洗礼式の阿鼻叫喚である。寅当人に愈々これが開示される最終段階も悪趣味きわまりない。葬式で寅にそれを知らせることで事は黒い笑いとなる。

 佐藤オリエは最後まで寅の寄せてくる懸想に気づかない型のマドンナである。その残虐な無意識は最後には死神化して、父である東野英治郎を毒牙にかける。何も言わない英治郎は何も言わないからこそ、寅の懸想を把握していると思わせる。彼はマドンナの無意識と寅を密かに媒介しているのであり、だからこそマドンナは父を殺さねばならないのだが、媒介物たる彼の死は受け手をマドンナの無意識へ移入させる作用をもたらす。エピローグの京都はマドンナ視点で叙述されるのである。
 京都の場面になれば直ちに文法の違和感に気づくはずだ。寅の営みが遠景から観測されている。マドンナの主観に接近したところで、そこには何もない。残虐な無意識が広がるばかりである。ただ、マドンナの虚空を経由することで物語は寅の心情を排した客観視点へと到達する。その視点こそ面影の母へ至る道だったのだ。