高慢を超えて 『踊らん哉』

 失恋をした男の顔を如実にトレスすることで『秒速』のタカキが嫌な共感をもたらすように、男の好意を察知した女の顔を忠実にトレスすることで『言の葉の庭』のユキノがこれもまた嫌な共感を喚起する*1。御苑のベンチでタカオの好意を悟った彼女は、自らの優位を享受するかのような微笑をたたえるのであった。『言の葉』は恋愛体質の裏返しとしての女性嫌悪に終始したといえるだろう。タカオに墜されユキノが性愛の優位を失い報復を受けることで話は終わっている。失恋が題材となると男女のいずれかが憎悪の対象となりかねない。それを回避するアイデアが問われる所以である。
 

 Shall We Dance [1937] が、これは終盤になるのだが、男の好意を察知した女の顔をジンジャー・ロジャースにやらせている。ジンジャーはユキノと同じように好意を悟った当初の段階では素直に驚く。離婚届を携えてアステアのショーを訪れた彼女は舞台で展開されている異様な光景を目にする。ジンジャーの仮面を被らせたバックダンサーを従えてアステアが変態機動を行っていたのだ。フラれたとしてもせめて彼女の幻想と踊りたい。彼はそう悩乱したのである。

 ジンジャーはアステアの愛慕を悟り、やはりユキノのように微笑を浮かべる。ところがその造作は性愛の優位を悟った高慢を醸しながらも、ユキノとは違い、受け手の反感を免れているように見える。口元は確かに笑みを湛えている。しかし、その眼差しが男の悲痛さを認めている。恋敗れたにもかかわらず、舞台の上では明朗に挙動しようとする男の健気さに感応している。
 造作のダブルミーニングがジンジャーの顔貌を高慢に見せないだけではない。自分の仮面を被るあのダンサーたちに紛れてやろうとジンジャーは策謀する。彼女の微笑が茶目っ気と解釈されることで、高慢が隠ぺいされるのである。


 オスの好意を察したメスが高慢になるのは自然である。にもかかわらず、フィクションの叙述に当たっては、女が反感を招くようであってはならない。その顔貌は高慢でありながらも、また別の解釈ができ得るような多義性を湛えねばならない。
 『柴又慕情』の吉永小百合は寅の好意に全く気がつかず、その鈍感が彼女を酷薄に見せかねない*2。ゆえに彼女に代わって彼女の無意識が男の好意を察知するのである。無意識の仕業ゆえに、女は自分の涙の理由がわからない。ただ当惑するばかりである。
 『一週間フレンズ。』で男の尽力を感知するのもやはり女の無意識だ*3。記憶を失っている女は男のことを忘れている。しかし無意識がそれを覚えていて、女を正体の知れぬ悲痛に陥れるのであった。