『四月は君の嘘』


 あくまで山崎賢人が事件を目撃する体裁は保たれるべきで、広瀬すずは観察対象であらねばならない。すずは隠し事をしていて、その発覚がオチとなるからだ。しかし男の視点であるならば、当然、彼の抱えている課題に物語は傾注する訳で、すずは課題解決の踏み台にしかならなくなる。殊に、彼女のマンガじみた大仰な挙措が双極性障害じみたような病理を思わせるから、賢人が変なものに引っ掛かってしまった体となり、ややもするとすずは話から浮いてしまう。このマンガの挙措が単なる様式的な性格描写の現れだったら、違和感は慣れの問題であって、しばらく経てば受容できたことだろう。ところが、すずの不自然な力みは不自然として受容されるべきものであって、最後には合理化される類の引っかけなのである。意図された真正の不自然なために、彼女は筋から浮いてしまう。むしろ遊離せねばならないのである。結果、すずは賢人の課題解決のプロセスのきっかけとなりながらも、話の進展にともない解決の過程から疎外される。賢人の課題は、自分で勝手に悩んで勝手に解決してしまった自家発電のような様相を呈す。あるいは、抑圧の解除が偶然依存に見えてしまい、すずが要らない印象を受ける。すずの隠し事が明かされ、不自然な挙措が合理化されてもその印象は変わらない。
 本作のすず周りのプロットは『AIR』の観鈴ちんのそれを踏襲している。『AIR』の主人公は頭のおかしな女子高校生に絡まれてしまう。ところが切実な理由があって、勇気を出して彼女は男に絡んだのである。そして、残り少ない余命を知ったすずは人格改造を試み、賢人に敢えて絡んだのである。同じ文体を共有する両者だが、顕著な違いもある。観鈴ちんほどすずの内面は秘匿されない。殊に、症状悪化以降、観察対象でありながらも、すずの内面が漏れやすくなってしまい、『君がいた証』と同じ問題を提起してしまう*1
 息子がサイコパスだったという秘匿すべき情報がある。他方で、その息子の視点を陳述し、あたかも彼が非サイコパスであるかのような描写をおこなう。これが『君がいた証』の問題点である。隠さねばならないキャラクターの内面を敢えて陳述することで、秘匿を完全なものにしたい。しかしそれでは矛盾が生じる。内面を叙述して隠し事がないと明かしておきながら秘匿された活動があったと結論で引っくり返してしまうと人格の整合性が危うくなる。本作の自己啓発以前のすずの初出が惹起する強烈な違和感もかかる矛盾の波及だと考えられるのだ。


 ギャルゲーというメディアの特性もあって、内面管理に意識的な観鈴ちんのもたらす哀感が鋭角的だとすれば、すずの内面開示の緩さは哀感を拡散的にする。すずの短い人生を目撃したという俯瞰の余韻と、彼女の人生に厚かましく賢人が包摂されたという感慨が交雑するのだった。

*1:離断なき絆を参照。