The Ciano Diaries 1939 - 1943

文学者の日記〈8〉長谷川時雨・深尾須磨子 (日本近代文学館資料叢書)
 深尾須磨子の日記によると、彼女がムッソリーニに面会したのは1939.6.2である。ムッソリーニの信奉者である深尾は感激もひとしおなのだが、会談の最後にはムッソリーニの様子に違和感を覚える。「ム首相の私をぢっと視つめられる眼には寂しげな影が窺はれた」と記している。イタリアに心酔する一方で観閲式のパレードに臨んでは何か弱そうな印象を受けたりと、深尾には冷静なところがある。
 ムッソリーニに一体何が起こっていたのか。この年の春にはアルバニア侵攻があった。ガレアッツォ・チャーノの日記にあたれば、深尾がムッソリーニに面会した同日、チャーノはアルバニアの外交団を迎えている。チャーノは深尾に面識があり、ムッソリーニとの面談を仲介するよう彼女に頼まれているのだが、この日の記述に深尾に対する言及はなく、代わりに、国庫大臣フェリス・グァルネリをムッソリーニが愚痴る様が記されている。
 ムッソリーニの自国民に対する態度は概して辛辣だ。彼の愚痴はチャーノの日記の至る所に散見される。ドイツ嫌いの国王を愚痴り、弱すぎる陸軍を愚痴る。後年、ナポリが爆撃された際には、こうこき下ろす。
 「ナポリがかかるシビアな夜を迎えて幸福だ。戦争はナポリ人を北方人種にするだろう」
 要は、39年の段階ですでに疲弊しているのである。同日記の1939.3.16には2か月ぶりにムッソリーニと会ったエットーレ・ムーティの驚きが見える。
 「疲労していて何年も歳を取ったようだ」
 深尾須磨子は的確にその疲弊を感知したのだった。しかし、これは試練の序の口に過ぎないのである。



 『ウディ・アレンの重罪と軽罪』で記録映画の監督に扮するアレンは、ミア・ファローをめぐってアラン・アルダと鞘当をやる。アレンは経済的理由で嫌々ながら、テレビプロデューサーであるアルダのドキュメンタリーを撮っている。カメラを前にしたアルダの長広舌にウンザリしたアレンは、演説するムッソリーニの記録映像をアルダの長広舌につないでしまう。ヒトラーではなくムッソリーニを挿入したのが微妙なところで、前者ならば洒落にならないという配慮だと思われる。ただ、ムッソリーニの記録映像はラストに再登場して、今度は本編そのものに挿入される。
 劇中のアレンがもともと撮っていたのがルイス・レヴィという架空の哲学者を題材とした記録映画だった。レヴィ教授は中盤で自決するのだが、終盤のムッソリーニの記録映像に被ってくるのが、レヴィ教授のナレーションなのである。教授はこんなことを言う。
 「われわれは自分の選択を通じて自分を知る。選択こそがその人物の総決算だ」


Fateful Choices: Ten Decisions That Changed the World, 1940-1941
 1940年5月から41年12月に至る米英ソ日独伊の意思決定過程を概観するイアン・カーショーの Fateful choices の中で、個人が存亡にまつわる選択をしたという印象をもっとも残すのがムッソリーニである。
 チャーチルには選択の迷いはなく、ダンケルク前の堅忍の日々が叙述される。スターリンの物語は、一端は懲罰された悪の権化が劇場ジャイアン的再生を遂げる神話である。チート国家アメリカは悲壮感皆無で退屈である。日本の開戦過程は日本語話者には他人事ではないのだが、個人の選択の話かといえば趣が異なる。他方、ポーランド侵攻以降、ムッソリーニには明瞭な選択肢が課せられ、彼は胃潰瘍再発の兆しにおびえる。ドイツとともに参戦か中立か。この選択肢の利得は明らかで、悩む必要がないないように見える。参戦の場合、利得は大きいが最悪滅ぶ。中立の場合、利得はないが滅びはしない。胃潰瘍になるくらいなら、中立すべきである。ところがムッソリーニの世界観ではそう簡単にはいかない。中立すると、ドイツが世界征服した暁には、今度はヒトラーの毒牙が半島に向けられるであろうと彼は危惧するのである。


 1942.3.28 息子ブルーノの葬儀に平然と臨むムッソリーニをチャーノは石のようだと記している。あの人は超人なのか非人間なのか。そう尋ねるものがある。チャーノは答える。彼は弱さが人々に与える感化を恐れていると。
 1942.8.7 ムッソリーニはブルーノの墓を訪れる。墓前でもムッソリーニは無感動だ。しかし内面では苦しんでいるとやはりチャーノは推察する。
 墓石に接吻したムッソリーニはその墓と祭壇の間の空き地を指差す。
 「わたしはあそこに眠ることになるだろう」