三島由紀夫 『宴のあと』

宴のあと (新潮文庫)
 恋愛であれ何であれ、自意識の混迷は行動を躊躇させる。自意識の暴走は抑止されねばならぬが、自意識を欠いてなお人は人であり続けられるのか。出てくるのは無意識の制御という逆説の課題であり*1、形式への依存が回答のひとつとなるだろう。形式が人を運ぶことに期待するのである。三島は形式の一例として筋肉や制服を挙げる一方で、女性は自意識によって昏迷することがないとする。子宮という究極の形式が自意識を克服するのである。『宴のあと』はヒロイン視点であるから、自意識の克服に言及がありながらも、最終的には自意識の脱落した人間の明朗で喜劇的な在り様が主題となる*2。ただ、この話の前半はヒロイン視点を捕捉しつづけるために、彼女の自意識が否応なく露曝している。女の無意識が顕在するには、ヒロインの夫の選挙戦になって参謀の山崎の視点が介在してくるのを待たねばならない。物語がヒロインの視点から脱却して女は自意識を喪失する。
 無意識の制御問題は、選挙戦に当たって見え透いた謀略を試みる彼女にその典型がよくでてくる。ヒロインは割烹着でおかみさん連のところへ出かける。彼女は自分を貴婦人だと確信していて、割烹着は人を欺く打算だと自覚している。ところが、実際のところ彼女は割烹着の方が似合ってしまうのであって、意図せぬ形で真正の属性たる女の庶民性が暴露される。見え見えの偽善である割烹着が偽善ではなくなり、おかみさんらには愛されてしまうのである。
 山崎は女のあからさまな訴求に呆れて、青梅の忠霊塔へ出向いたときに嫌味を言う。
 「忠霊塔の礎の前に立つと、又滂沱たる涙が自然に流れるんでしょうな」
 女は当然のごとく答える。
 「そうですとも。自然にですよ。自然なものしか人の心を搏ちませんよ」
 このあと怪文書の件になって、ヒロインの猥らな過去が暴露されると、三島の女性嫌悪とヒューモアがとまらなくなる。
 女は演説のたびに聴衆に嘲笑の影を見て、怯える。ところが、喋っているうちに受難が「殉教の女のような陶酔」に追いやる。とうとうヒロインは、「火刑に会っている女のように青空へ目を上げ」る始末で、自意識を欠いた状態が、一種の色情狂の奇人として扱われてしまう。三島が自らのボディビルを悪癖と称してたびたび自嘲するように、自意識を喪失した人間への蔑視が爆発するのである。