『神様の思し召し』

 明瞭な選択肢が劇中に現れた時点で負けになってしまう可能性がある。結末が予想を超えない恐れが出てきてしまう。たとえば『地球を守れ』('03)だ。その主人公は宇宙人が襲来すると警鐘を鳴らし続け周囲から狂人扱いされる。結末はふたつしかないだろう。男は狂人か、あるいは本当に宇宙人が来襲するのか。こうなると、狂人だったとしても宇宙人が実在したとしても結末に意外性がなくなってしまう。しかし、選択肢を明快にすることで受け手を誤誘導する手管もある。受け手の注意をそらすためにあえて、明快な選択肢を提示する方法である。『鑑定士と顔のない依頼人』では、見え見えながらもジェフリー・ラッシュの直面した事態が詐欺か否か、それが焦点であるように語られる。ところが、この帰結が明らかになってからが実際の本番であって、ジェフリーの失恋の話が本当に陳述されるべきものだったのである。



 『神様の思し召し』で提示される二者択一には階梯がある。まず、外科医で啓蒙主義者である主人公が前科者のカリスマ神父に屈するかどうかが問題とされ、屈するという結論になるのだが、屈した感じを緩和するために工夫がある。啓蒙主義が屈したとしても、ボーイズラヴめいた紐帯が屈辱を和らげてくれる。最終局面ではカリスマ神父を交通事故で重体にすることで懲罰感情が充足されやはり屈辱が軽減されるとともに、二者択一がより濃縮されてくる。奇蹟が起こるか否か。つまり神の存否が問われ出す。運ばれてきたカリスマ神父の予後は悪く、担当外科医は奇蹟が必要だと主人公に伝える。
 この二者択一も困難だ。奇跡が起こったら一気に俗謡調に堕ちる。しかし神がいなかったとしたら、そもそも事件を物語にする前提が失われる。ではどうするのか。奇蹟が起こったのか起こらなかったのか、それが判明する寸前で話を終わらせるのである。ただし、奇蹟は起こらなかったという自然の不穏な予兆とそれを認めた主人公の微笑が、奇蹟の有無を明瞭にしない一方で神の存否には結論を下すようである。その予兆をもたらしたものに注意を促すことで。


 二者択一の問題とは趣がやや異なるが、キャラクターの生死が不穏な予兆を醸しながらも宙づりになるモチーフは『四月は君の嘘』でもやっている。
 終盤でヒロインは予後不良の手術に臨む。主人公男は手術の間、不穏な予兆に散々見舞われ、これは駄目だったのだろうと思わせる。しかしその後、時間は飛んで、ヒロインの顛末がぼかされる。彼女はどうなったのか。ラストカット。主人公に渡した手紙の中で女は言う。
 「わたしの人生は君のおかげでカラフルだったよ」
 ここで顛末が確定するとともに、彼女の生死は実のところ問題とされていないことが判然となる。それはもうすでに彼女にはわかっていたことであって、むしろ生存の可否の問いかけはその覚悟を克明とするための肥しだったのである。