チャールズ・ストロス 『アッチェレランド』

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)
 複数の自分のコピーに人生を送らせ淘汰を試みる事業が作中に出てくる。人生の正しい選択を見出す手立てなのだが、そこにおいて各コピーの人権問題が提議されることはない。ゆえに、自分をコピーして分岐させる決断はカジュアルに行われる。劇中人物はバックアップを残して冒険に出る。ところが、このバックアップは記憶の固定された復元ポイントではない。バックアップにも自律した人生を送らせることで、自分を能動的に分岐させてしまうのだ。しかもこれがトラブルを招く。冒険から帰るとバックアップが負債を残して消え失せている。ヒロインはこの負債を負ってしまう。
 これは近代法とは異質の世界観だろう。バックアップとはいえ分岐以降の記憶は共有されていない。記憶の継続と責任能力を関連付ける立場からすれば、もはや当人にとってバックアップは他人であり責任を負う必要はないはずだ。しかし血縁の近しさによって責任が発生する。未来が氏族制度に先祖返りしている。そう考えるのなら、コピーに人権問題が生じないのも何となくわかる。
 技術の進展が市場ベースの経済を変貌させて氏族制度と融和するような形態となった。これで理屈は通るのだが、しかしもどかしい。血縁部族が復古する様が叙述されながらも、叙述しているのが血縁部族であって市場の変貌がそれをもたらしたという意識が、語り手の中ではぼんやりとしていて、明瞭になっていないように見える。近代とは異質の社会の法体系が陳述されたというよりは、話の成り行きで法体系が改変されて継当てされるような散漫な印象の方が強い。


 淘汰の踏み台にされるコピーの心理に拘りがない。これも意識的にアンチ・イーガンをやっているのではなくて、語り手のパーソナリティの反映だと思わせてしまう。IDが分裂するイーガンのおなじみの恐怖が、最後にようやくとってつけたように言及があるだけで、とにかく自意識に執着がない。執着がないのだから法人に自意識を与える発想がでてくる。
 自意識のなさ自体はポストヒューマンの造形観としてありふれたものだろう。しかし自意識を克服する苦闘などをあまりにも問題にしないのだから、技術が自意識の在り方を変えるロマネスクは薄い。もともと自意識への拘りがないゆえに技術が自意識の軛を超えて跳躍するのである。