『永い言い訳』


 作家であるモックンがトラック運転手の竹原ピストルと遭遇することで階級間交流が始まる。階級の媒介物となるのは竹原の息子である。私立を目指し受験勉強している彼は両義的な位置づけにあるのだが、階級を媒介するにも関わらず、逆にモチーフの対立点となってしまう。階級間交流と受験勉強という階級上昇の手段が排他的な関係になっている。上昇したら階級差が消失し交流の概念がなくなる。どちらを叙述するか語り手は選ばねばならないのだ。
 師匠筋の是枝の『そして父になる』も福山雅治リリー・フランキーの階級交流物であり、フランキー一家が称揚されることで庶民傾斜がなされた。本作でも庶民傾斜が別の形で表れる。竹原は息子の受験に理解を示さず階級上昇を重視しない。対してモックンは階級上昇を重視し息子の受験を介助する。階級間交流と階級上昇の矛盾する装置が、ふたりの価値観の対立によって曖昧に並列している。ところが最後、かかる取り繕いが破綻する。場面はモックンの出版記念パーティーである。まず、場違いな場所に竹原一家が現れることで階級差が露曝される。息子は坊主で詰襟姿だ。受験に失敗したのである。丸刈り校則全滅の世にあってこの記号化は酷いが、この直後に叙述される、一家と業界人の和気藹々も気まずい。階級を超えて交流できるのなら階級上昇なんぞ必要ないという形で庶民が称揚されるのである。
 近代のフィクションの作法に慣れた受け手にとっては違和感がある。残虐ですらある。近代のフィクションは階級間移動を重視するからだ。
 『リトル・ダンサー』も息子の階級上昇欲に否定的な父という点で主題を共有していた。ところが結論が違う。『リトル・ダンサー』は近代の典型的な訓話である。父親はラストで息子の階級上昇の捨石になることに自分の宿命を見出す。対して階級固定を結果的に認めてしまう本作はインドの通俗映画に近い。特に是枝に顕著なのだが、かかるエキゾチシズムを海外映画祭の賞レースに利用している節が本作にもある。


 『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』には、とらやを訪れた文豪の宮口精二とタコ社長が邂逅する場面がある*1。互いに階級は違う。にもかかわらず社長が名刺を差し出すと「ご高名はかねがね」と宮口は応じ、このふたりは階級を名刺一枚で乗り越えてしまう。
 ヴォルテールは18世紀ロンドンの株式取引所をこう描写している。 

 取引所では、ユダヤ教徒マホメット教徒、キリスト教徒が、同一宗教に属する人間であるかのように、互いに取引きを行ない、異教徒という名前なんか破産する連中にしか与えられない。そこでは、長老派教徒は再洗礼派教徒を信用し、国教徒はクエーカー教徒の約束手形を受けとる。こうした平穏で自由な会合から出て、ある者たちはユダヤ教会堂に行き、ある者たちは一杯飲みに出かける。ひとりが父と子と聖霊の御名において大桶のなかで洗礼をしてもらいに出かけると、別のひとりは自分の子供の包皮を切ってもらい、自分でもわからないヘブライ語の文句をその子供に向かってもぐもぐ唱えてもらう。クエーカー教徒は自分らの教会に出かけていって、帽子をかぶったままで神の霊感が下るのを待っている。そしてみんな満足している。
哲学書簡』

 職能が差別を越えられる。近代のよさである。