Greene, J Moral Tribes: Emotion, Reason and the Gap Between Us and Them

Moral Tribes: Emotion, Reason and the Gap Between Us and Them
 いくつかのトロッコ問題のうちでも、殊に被験者の多くにとって容認できないケースがある。1名を線路上に突き落として暴走するトロッコにぶつければ、トロッコは停止して5名の保線作業員が助かるとする。この場合、突き落として5名を救う決断をするものは3割である。他方で、線路のポイントを稼働させることで5名は救えるが、転換された分岐先の線路には1名の作業員がいて、ポイント稼働の結果、彼をひき殺してしまうケースがある。ここでは、8割の被験者が5名の代わりに1名を轢き殺すことを是とする。では、なぜ突き落として5名救うのは駄目で、ポイント稼働では抵抗がないのか。本書の議論はかかる心理の究明にあるのだが、わたしには、傍観して5名がトロッコに轢き殺されるよりも、ポイント転換をしてトロッコに1名を轢き殺させる方が苦痛であるので、本書の議論を我が事として受けとれない。したがって、わたしのとっての興味は以下の事となる。なぜ行為することで1名を轢き殺すよりも行為しないことで5名が轢き殺される方にわたしは苦痛を覚えないのか。
 5名よりも1名の損失のほうが人類の幸福の総量を損なわないはずだが、1名を費やした段階で、それで5名救ったところでもう駄目ではないか、というヤケクソじみた憤りをわたしは覚える。これはなぜか。まず、不幸の大きさがある一定の水準に達すると、それ以上の不幸を感知できなくなる可能性が考えられる。1名の轢死の不幸量を10と仮定する。5名ならば50である。ところが、10以上の不幸量を感知できないとしたら、1名だろうが5名だろうが不幸量は10のままになって、主観的に感知できる不幸量に違いが無くなる。ポイントを動かしても結果は同じになってしまう。
 結果が同じであれば、次に問われるのは、この不幸の体系への参与の度合いである。不幸の体系へ参与を強めると、主観的な不幸量が増してしまう前提がこの考え方にはある。そもそもトロッコの暴走はわたしの責任ではない。ところがポイントを動かしてしまうと、1名を轢き殺したという責任がわたしに生じてしまいう。傍観もひとつの責任だが、トロッコが暴走したという不幸の体系へ参与する実感が、傍観よりもポイントを動かす方に強く生じる。
 あるいはこう言い換えてもいい。5名が轢死する主観的不幸量よりも、ポイントを動かすことで増幅する不幸の体系への参与の度合いとそれにともなう不幸量の増幅の方が応えるのである。