『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』


 これから起こることを知りそれを克明に再現しようとする不可解な癖が小松菜奈にはある。事実上の原案である『時尼に関する覚え書』との差異のひとつがそれで、福士蒼汰もこの癖には混乱してしまう。既知のことが実際に現前するよろこび、つまり宿命を知るよろこびを女は欲しているのか。これはそうではないのだが、後々よりアイロニカルな形で宿命論は叙述されることになる。女の記録癖は当初のところはむしろ、男が宿命を克服する過程において彼に宿命論とは異なる感傷をもたらしている。自分は知っているが相手は知らないステイタスに至った男は、女の記録への依存が逆に彼女の記憶を操作する権限を自分にもたらしていると把握する。自らに感化の源泉を覚えた彼は自分の希少性に義務感を重ね、介護ものに似たノリを出してくる。
 対して小松菜奈が未来に到達するのは夢を他者に託する属性としての母性である*1。タコ焼き屋で少年時代の男と再会した女はやはり彼に操作を働きかける。そこでは夢の委託が二重性を帯びている。最早自分ではない過去の自分に喜びを与え呉れるように少年を操作するのであって、その委託を直接享受するのは今の自分ではないのだ。
 タコ焼き屋で少年を前にして女が行うのは今生じつつある感傷と過去の幸福な記憶を確定させる営みである。この想いがもたらされたことを祝福することで、記憶を現前させる宿命が逆行する。