『君の膵臓をたべたい』


 浜辺美波の演ずる痴性はエイリアンめいている。挙動は商売女の媚態そのものだ。加えて、不自然なるその身体に乗っかっているのが年齢不詳の顔貌である。この手の物語の様式に基づけば当然、かかる態度は作り込みの証左であって、偽装の下にあるヒロインの実体の発見を以て話は完結すると期待される。しかし、かかる予想は次第に脅かされる。偽装にしては浜辺の痴性演技があまりにも隙を見せず、語り手の自意識の深度に疑いが出てきてしまう。女の挙動は偽装ではなく真性であって、それを痴性だと受容されることを語り手は期待していないのではないか。
 語り手の意識の水準を疑い出した段階で、それはもう語り手の罠にはまったのと同義ではある。ただ、語り手が天然であることは半ば正解でもある。天然だからこそ本当に隠したいものから受け手の視線が逸れてしまう。われわれはヒロインの化けの皮を剥ぐつもりでいた。ところが彼女は最後まで崩れない。むしろその強さが、われわれの化けの皮を逆にひん剥いてしまうのである。ヒロインの態度が偽装であると思い込ませる。これが引っかけなのだ。
 結末でヒロインの視点に到達する件はまだお約束である。いよいよヒロインの偽装が暴かれると期待していると、勃発するのは主人公男に最初から好意があったという文系の邪念である。これは決して不快ではない。語り手の本音がやっと見えてきてうれしい面もある。しかしやがて、文系という劣等属性の生き様をヒロインが肯定的に解釈する形で邪念が迸りを見せると、浜辺美波の話ではなく俺の人生の話になってしまって、発見されるのはヒロインではなく主人公男の方になる。あるいは、ヒロインの発見を通じて主人公男が自分自身を発見することになる*1
 かくして、10年代難病記憶喪失系映画は以下のように分類できる。
 『四月は君の嘘』と『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』はヒロインを発見する。対して、『一週間フレンズ。』と本作はヒロインが主人公男を発見する。しかし、ヒロインの属性に基づくとこの分類はねじれる。君嘘と本作のヒロインはアッパー痴性系である。ぼく明日とフレンズはよりダウナー寄りで知性がある。主人公男はフレンズを除いて皆、絵に描いたような文弱である。フレンズの主人公男はアッパー痴性であるが、最後にヒロインに発見されると明朗ゆえの哀切さが獲得される仕組みである。