『ヒメアノ〜ル』


 男の甲斐性の裏付けなしに成立してしまった恋愛はつらい。それは実際に起こり得るのかもしれないが、やがて経済問題から佐津川愛美濱田岳の間に拗れが生じるのは目に見えている。ふたりの幸福の危機から生じるはずのスリラーは、どうせ壊れる幸福であるから実効的とならず、事象は夢幻のようになり、現代邦画では異質なことに阿鼻叫喚がハードボイルドのような品の良さを湛える。
 森田剛には仕事ができるという鑑賞に耐えうる美徳がある。しかし、イジメやパチンコの件のように能力の発動には人を選ぶ。拳銃強奪から始まる暴力のわらしべ長者的展開で事が社会化してもすぐに弾が切れる。佐津川に恋慕する割には女性への暴力の苛烈さに見られるように異性に劣等感がなく、佐津川への恋の信憑性が疑われる。濱田への暴虐がわからなくなる。つまりは話のフォーマットが分からないのである。あるいは、様々な中和を行うことで何かを隠そうとしている。女性への虐使が昂じるとき、それがわかりかける。佐津川の顔面を男の拳が破壊するとき、手際の良さの美徳とともに暗い快哉が感ぜられてしまう。フォーマットが掴めたような感触が生じるのだ。
 虐使という形で発動する、女性をそれとして扱わない平等主義が快哉をもたらすとすれば、そこにはまだ恣意がある。事件は佐津川愛美の存在そのものに端緒があり、話は佐津川自身に女難という仕組みがもたらす災難への当惑を覚えさせる。容姿の淡麗は当人の責任ではないのだ。しかしながら、あくまで主題とされるのは女難に叛逆する森田剛であり、映画全体を包む夢幻が究極的には女難を免れていた時代への郷愁へと至るのである。