第13話 「灯台」『やがて君になる』

 水族館で燈子が侑の姿を見失う件がある。カットは燈子の遠景となり、辺りに侑の姿は見当たらない。燈子は侑を探すのだが、続くカットで不可思議なことが起こる。燈子の手が接写されると、今まで姿の見えなかった侑の手が IN して握ってくるのだ。彼女は何処から出てきたのか。
 侑の出現について、シナリオ段階ではかかる不審を抱かせる余地はなかった。燈子は侑を捜しにその場を離れ、角を出たところで侑に掴まれている。しかしコンテでは上記のように燈子はその場にとどまり、次のカットで侑に掴まれる構成となっている。
 この状況を合理化したいとすれば、燈子の死角から侑が忍び寄ったと解釈する以外ないだろう。したがって燈子の手が接写されたとき、カット頭に十分な間をとってやって、侑の手が IN するタイミングを遅らせる必要がある。侑が密かに接近する時間を確保してやれば、多少は自然につながるだろう。ところが、不自然を駄目押しするかのように、編集段階でカット頭の間は伸ばされるどころか逆にカットされている。侑が別次元から突如現れた印象を敢えて与えようとしている。この意図は何か。
 『雨月物語』がカットを割らないことでホラー映画の画面を構成したとすれば、こちらは逆にカットを割ることで画面を恐怖映画にしている。手を握られた燈子が目を上げると、目前には魔法のように侑が立っている。水槽の前で寒色に照らされた彼女は、この世ならざる者のようだ。侑は燈子の手を引き冥界に連れ込むように海中トンネルへと導く。そこで燈子のモノローグが入る。
 「このまま終わらなければいいのに」
 恐怖映画の構成は侑を儚げに見せるために援用されている。彼女がいつまでもここにはいないような印象を醸成することで、燈子の吐露が切実になる効果が生まれる。